自立するのはむずかしい
新年早々、大変興味深い増田エントリーが回ってきた。ツイッターワールドではこの手の鬼嫁?的な話題が尽きないが、はてなでも人気のようだ。昨今はとにかく女性を甘やかすのが正義なので、こうした「大人になりきれない」女性は確実に増えていると思われる。以前なら「ネタだろう」と一笑にふしていたような話が、あるある話になっているのだから恐ろしいことである。
こういう女性のメンタリティーはジェンダー以前の問題だと思うのだが、わたしのような老害が何か提言すれば全て「昭和のおっさんの世迷言」「無知な反フェミニスト」「モテない男の僻み」「価値観がアップデートされていない」ということで粉砕されてしまう。したがってわざわざ炎上リスクを負ってまでこうした困った人たちを説得する義務はないので放置するわけだが、ミクロにはどうでも良いこともマクロにみると大きな社会損失と言えるので悩ましい限りだ。昨今の結婚しない→子供が生まれない、の悪循環のほとんどはこうした「大人になりきれない」女性が、いつまでも子供のままでいたいと思うことに起因すると個人的には思うのだが、こういうことを言うと「男性が悪い」と言う話で無限ループし始めてしまう。わたしのような親世代からすれば、こんな連中ばかりになってしまうと、自分の子供が成人したときに困ってしまうのでなんとかしてほしいのであるが。。。
とはいえ、この辺のメンタリティーはじわじわと世間に侵食しているので、比較的穏当なノンポリの女性もだんだんと現代フェミニズムの影響を受けて変化しつつあるような気がする。元増田のようにここまで酷い例だと流石に「なんじゃこりゃ」となるが、実際には引用したような状態を是とする女性は多いのではないか。現代フェミニズムは一種の麻薬のようなもので、女性にとって非常に心地よい感情を提供してくれる魔法である。宜なるかな。よほど自制心のある人でもなければ、わざわざ反論してまで自立を主張する人は稀だろう。世界の中心は常に自分自分自分、、、自分の感情が全て、これこそ自然の摂理である。
こうした問題に対する一番有効な処方箋はジェンダーではなく自立なのだが「リベラルな」世代には何のことだかさっぱりわからないのではなかろうか。われわれのようなロートルがどれほど言葉を尽くしても無駄、価値観が変わってしまった世代には届かないので指摘するだけ野暮というものだ。老害の世迷言としてネタにされておしまいだろう。ジ・エンドである。
親兄弟も説得を諦めた模様で、ますます暗澹とした展開であった。こうしてまた一人の異常者が世に放たれ、被害者意識はSNSで拡大再生産され、フェミニストによって強化されるわけだ。それを見た良識ある若者も、ニヒリズムも似た「諦念」にやられてしまうかと思うと切なさが止まらない。
橘玲を読もう
年初に橘玲の新著を続けて二冊読んだところ、近年稀に見るレベルで鬱々とした気分になってしまった。氏の本は基本的にこの世界の身も蓋もない側面に焦点を当て、その残酷さを言語化するというものがほとんどだ。氏の著作における黄金の羽根パターンは、こうした世の中の構造をうまく「ハック」し、「黄金の羽根」を拾って「裏道を行く」というものだが、本書もその一つである。はっきりいって往年の橘読者にとっては「またか」という感じであろう。取り上げるトピックの一つ一つははいずれも最新のトレンドを取り上げているが、論旨的にそれほど新しいものはないといって良いだろう。要するに「いつものやつ」である。故に、橘節が聞きたい人にとっては一種の自傷的な癒しになるに違いない。
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あれから数年、氏の言う通り(?)それなりに実践してみてつくづく思うのだが、橘理論を実践したところで、幸せになれるとはとても思えない。無論、著者通り黄金の羽根を拾うことができ結果として経済的に成功し、今の言葉で言えば「FIRE」を手にすることができるならこの限りではないが、そんなことが軽々にできるわけがないことはこのわたしが誰よりも証明している笑。最近この文脈においては「FIRE」なるワードが世間を賑わしているが、これなどはわれわれロスジェネ世代にとっては以前2010年ごろにあった「ノマド」「フリーランス」「自由な働き方」云々の流れと何が違うのかとつい斜に構えてみてしまうと言うものだ。また違うハーメルンが笛を吹き始めたのか、と。
実際、10年以上前に氏の本に出会い「目覚めた」わたしは、それ以来さまざさまな投資や、転職による「人的資本の拡大」につとめてきたが、その成果は今ひとつである。それなりに資産は増えたが、いわゆるFinancial Independenceを勝ち得るほどではないし、そもそも一度競争的な環境に身を置いてしまったが故に、いまさらこのラットレースから抜け出すことができなくなってしまっている。すでにアラフォーを過ぎたが未だ落ち着けるほどの資産はなく、悠々と壮年期を過ごすことが許されなくなってしまっているわけだ。このままいけば、延々と資本主義のルールに絡め取られ、自由の意味を知ることなくその生涯を終えるに違いない。しかしこれも、典型的な橘ワナビー、被害者の類型であろう。
無論貧困なわけではなく、現時点に限ればそれなりに「ゆたかな」生活を送れているわけなので、多くの同世代すなわち「就職氷河期世代」からすればかなり恵まれた部類に入るだろう。しかしながら、はたしてこれが望んだ在り方なのだろうかという問いは消えない。見方によれば贅沢な悩み、典型的な都市型サラリーマンに「あるある」のミドルライフクライシスといえるが、これを後押ししたのは間違いなく橘玲の『黄金の羽根』シリーズと言って良い。つまりわたしは氏の被害者(笑)であるわけだが、氏はわたしのような被害者(笑)に対しても手厳しく、わたしの感覚では「ハシゴを外す」ような本も出している。それが『無理ゲー社会』である。
公平に言えば、氏が我々のような「笛吹に扇動された愚かな民衆」に対して何の責任を負ってないことは認めねばなるまい。本を出版するのも自由だし、それを読んで実践に繋げるのも読者の自由だし、その結果、果実を得られるかどうかも読者の才覚ひとつだ。ここにはお互いに何の強制もないので、わたし(及び多くの橘ファン)が人生を若干踏み外すことは、論理的には「自己責任」に違いない*1。とは言え、読者の立場からすればどう考えても扇動(笑)されているとしか思えないが、リベラル社会においては、その結果は読者自身が「自由な選択の結果得た結果」として受け入れるしかない。
。。。と言うような、「自由意志によりさまざまな選択を行い、その結果を自己責任として受け入れる」と言うイズム、これこそが今の世の中を席巻している「リベラル」と言う思想の特徴であろう*2。氏はこうした「身も蓋もない事実」をまたしても本書によって構造的に分解し、容赦なくわれわれに突きつけている。そしてもっと恐ろしいことに、氏はこれに対する有効な処方箋を何一つ提示せずに本書を終えている。リベラルについて警鐘を鳴らしながら、その処方箋は世界をハックすることだと(別の本で)解き、その本を信者に売りながらも、同時にこんなことは万人に薦められるものではないと免責し、しかもこの「残酷な世界」をどうにか生き延びていくしかない(がその方法はめいめいで考えるしかない)というような本である。これぞまさに橘節ともいうべき、氏の美学であろう。
サラ金の歴史 - 消費者金融と日本社会 -
年末年始を利用して久々に話題書を通読する機会を得た。Twitterで某アルファアカウントが呟いていたので、瞬く間にベストセラーに名を連ねたため知っている人もいるかもしれない。わたしもそれで本書を知ったのだが、、、それはともかく、これは確かに推薦図書に値する非常に優れたサラ金の近代史である。金融周りのテクニカルな記述には若干の予備知識を要求されるが、金貸しについて興味が少しでもあれば一読の価値はあろう。
わたしはローンにも無縁なサラリーマンで、ある意味では幸福な、穿った見方をすれば「度胸のない」平凡な俸給者である。だが、それであるが故に、サラ金や金貸しといった、特殊な才覚と胆力が求められる業界に対して一種羨望とも言える複雑な感情を持っている。『ナニワ金融道』や『闇金ウシジマくん』などの金融漫画が大ヒットしていることからも明らかだが、平凡な一般消費者がこうしたアングラな世界に対して少々穿った視点で興味を持つのは割と一般的なのではないか。借金一般に対する恐怖、畏れ、無知、そこから惹起される、金貸しや取り立てに対するステロタイプな見方…こうした一種歪な金貸しイメージを見事なエンターテイメントに昇華した漫画や映画が受けるのも納得である。
だが本書は、こうした一般的な金貸しのステロタイプを補強するような本ではない。むしろ本書は、前述した人気漫画などのエンタメ性を期待する読者からすると退屈に映るのではないだろうか。著者の属性が東京大学の先生ということもあるかもしれないが、主観的な価値判断は可能な限り抑えられており*1、サラ金業者の成り立ちや銀行との関わりなどが、経済史的な位置付けからその構造を解き明かすという構成になっている。これはわたしのように「ものごとの構造そのもの」に興味を持つ本読みにとっては非常に興味深く読み進めることができると思う。消費者金融という社会システムを担う主体が、時代の要請や社会背景に影響を受けながら変遷し、少数のバイタリティー溢れる企業家の手によってサラ金という形に結実し、その後債務者が増えるに従って徐々に社会的に締め付けが強まり、グレーゾーン金利の廃止と過払い金利訴訟などといった社会問題を受け、最終的には銀行の一部として取り込まれる、、、戦前から100年程度の消費者金融史を一気に駆け抜けるので、一気に通読するとしんどい気分になること請け合いである。
また、終章で少しだけ触れられている「金貸し」に対する一種人類の普遍的な差別感情などにも大変感銘を受けた。実際、金融業というのは社会の「潤滑油血液」としてその機能を必要とされながら、実際の現場では厳しい取り立てや暴利を貪る悪徳金貸し、といった面が強調されやすい。人間の最も根源的な部分が顕になるがゆえに、客観的な評価が難しいのであろう。わたし自身が少しばかりアウトサイダーに共感的である点は割り引いて考える必要があるが、歴史的に見て迫害を受けやすい金貸しという職業に対して冷静な評価を呼びかける著者の姿勢には素直に賛辞を送りたい。
ちなみにわたしはインターネットではなく、近所の大型書店で買い求めたのだが、そこでは平積みされることもなく、一冊だけ棚に残っていただけであった。こうしたニッチな経済史というのはやはりTwitterでの口コミに勝るものはないであろう。
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ここからは書評ではなく、わたしが本書からインスパイアされて少し頭に浮かんだ散文である。備忘録みたいなものなので飛ばしていただければ幸いだ。
「借金」
この言葉から想起されるものはほとんどがネガティブなものではないだろうか。金利、返済、破産、取り立てーーーおそらく誰もが一度は、親や兄弟から「連帯保証人のサインはするな」などといった警句をもらったのではないだろうか。借金とは本質的に価値中立であり、いいも悪いもないものだ。むしろ商売人にとっては、事業を拡大あるいは運転するために必要なレバレッジであり、将来価値を現在に持ち込み、時間を短縮するという点でポジティブな側面の方が強い。つまり商売人にとって借金は「コントロールすべきリスク」な訳だが、こうした教科書的な説明も、決まった金額を毎月もらってその中でやりくりするだけのサラリーマンにとっては正直ピンとこない。借金といえば悪い印象しかないのではなかろうか。
しかしその一方でわれわれ消費者は、高額な住宅ローンや、残価設定カーローン、また近年ではクレジットカードのリボルビング払いや携帯電話の割賦払いなどには比較的抵抗なく接しているようにも思える。これらも技術的には借金なのだが、どうやらわれわれの認知では、こうした住宅・カーローンあるいは割賦は「別枠」として扱われているような印象がある。これも本書を読んで思い出したわたしの中のちょっとした疑問なので、ここに付記しておく。面白い説明や解説をご存知の方はご紹介いただきたい。
もう一点。20年くらい前になるが、、、確か2004年くらいだったと記憶しているので、本書によればちょうど出資法、利息制限法の改正が行われ、サラ金に対しての規制が強まるタイミングの頃だ。わたしはとあるインターネットサイトで『サラ金!』というテキストサイトを熱心に読んでいたことがある。これは大手サラ金企業で回収を担当していた笠虎崇氏が自分の経験をもとに書いたフィクションであるが、あまりにリアリティーに当時まだ働き始めたばかりのわたしには非常に衝撃的であった。借金もしたことがない*2まだ若いわたしにとって、サラ金の現場で繰り広げられる何やらアングラな匂いのする物語は、非常に刺激的であった。
現在の笠虎氏は当時のサイトはもうなくなってしまったようだが、(おそらく)このサイトはのちに書籍化されたようだ(『サラ金トップセールスマン物語』)。ただし、わたしの記憶が正しければ、こちらの書籍よりも元サイトの『サラ金!』の方が断然面白かったように思う。まあこれはおそらく「思い出補正」という類のものであろう。本書も十分面白いので、興味を持たれた方はこちらも読んでみてはいかがだろう。
小説家になって億を稼ごう
ここのところ忙しくて2年くらいゆっくり本を読む時間がなかったが、たまたま寄った近所の本屋で見つけて、一気に読んでしまった。Kindleで買うと買ったことすら忘れてしまうが、紙の本だとタイミング次第で一気に読めるものである。寄る歳並みのせいであろう。
さて本書『小説家になって億を稼ごう』は久々に書評を書きたくなった作品なので、リハビリを兼ねて駄文を弄してみたい。
この手の業界の裏側を構造的に解説するいわゆる業界ハウツーものは意外とよく見かける。外野からすれば、対象読者が限られるためにあまり売れ行きが期待できない気もするのだが、なかなかどうして、根強い人気があるのだろう。あの敬愛する森博嗣大先生も似たような本を出していたくらいだから、やはりベストセラー作家本人が語る言葉には需要があるということか。そういえばわたしはスポーツは全くみないが、プロスポーツ選手の仕事論は好んで読む傾向にある。ある程度抽象化すると、プロフェッショナルの仕事論やハウツーには業界を超えて幅広い気づきというか需要があるということではなかろうか。
『小説家になって億を稼ごう』には、前半に小説の書き方が書いてある。おそらく想定読者の大半が期待するのはこちらの方だろう。このフレームワークは実際よくできていて、これに則って書けばわたしでも何か一つ書けるような気がしてくる。筆者の説明は大したものだと唸らされる。
ところが、後半はどちらかというとサラリーマンの仕事術のようなものが書いてある。売れた後の心構え、二作目の出し方、契約や税金との付き合い方、編集者や他のクリエイター(映画監督やプロデューサー)との付き合い方など、もはやビジネス書といった趣である。わたしのようなサラリーマン稼業からすればこちらの方がリアルで面白い。はっきりと書いてあるわけではないが、「創作といったところで、相手もビジネス、こちらもビジネス」ということを再三突きつけられているようで、ピュアな創作者が一番苦手なところだろう(笑)。創作の副作用として、脳内で自意識が肥大化しやすいのは致し方ない気もするが、それを嗜めているところにプロフェッショナリズムを感じる。
例えばこういう記述は面白くて仕方がない。
映像化の問い合わせがあったと聞いても、けっして興奮しないでください。これが貴方にとって初めての映像化依頼であれば、胸が躍るのも無理ありませんが、現段階ではまだ問い合わせにすぎません。モデルルームを訪ねた家族が「購入を検討している」と言うのと同じです。冷やかしの可能性もあると理解してください。(本文214ページ)
他にⅡ部の2章「編集者との付き合い方」は、いわゆる業界処世術であるが、サラリーマンのわたしからしても、頷けるところが多い。サラリーマン稼業に通ずるところが多く大変興味深い一冊だ。一読の価値ありである。
森先生も言っていた*1が、エンターテイメント作家というのは「創作者」であると同時に、出版というエコシステムの中におけるコマの一つに過ぎないということであろう。客観的に見れば当たり前のことなのだが、小説という一種の「芸術作品」の芸術性にばかり着目すると良くないということだとわたしは受け取った。作家性や芸術性を発揮するためには、その前にまず自分が置かれた市場の構造を理解し、読者(消費者)の需要に応えて商品を生産し続けるプロフェッショナリズムが求められているということだろう。つまるところ、作家性とかクリエイティビティーとかいう前に、まず最低限クリアしなければならないのは以下のようなポイントなのであろう。
- 締め切りを守って
- 消費者の需要に応える商品を作り
- それを継続的に行う
逆にいうと上記が守れる人は、安定感があるということで声をかけやすくなるということだ。これはサラリーマン稼業と同様で、よほど一握りのトップタレントでもない限り、依頼主や顧客から見て声のかけやすい営業の条件と重なる。そう考えると、作家を含む専業xxになる前には、むしろキャリアの最初にはサラリーマン(営業)をした方が良いのではないかとすら思うほどである(笑)。良い商品を作ることは必要条件であるが、黙っているだけでは売れないのである。
ちなみにわたしは松岡氏の名前は聞いたことがあったが、著作を読んだのはこれが初めてだ。わたしのように比較的活字を追うのが好きな人種でも、文芸のマーケットには引っかかっていないのである。そう考えるとマーケットの小ささに改めてびっくりするが、そんな限定された市場でも、当たれば年収一億を超えるというのは大変に夢のある話だ。敬愛する森先生も、38歳で始めた「アルバイト」で年収数億超えたのだ。始めるのに遅すぎるということはない。さあ、今日から貴方も小説家を目指し、処女作に取り組もう。
*1:と記憶に頼っているだけで、出典にあたったわけではない
コロコロ創刊伝説
【映画】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(ネタバレ)
駄作と話題の『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を見物に行ったところ、予想をはるかに超える角度でクソ映画だったので、これは書くしかあるまいと思って筆を執ってみた。それほどこの作品は、観た者に行動を起こさせる不思議なチカラがあるw
まず先に全体の評価だが、とにかくこれは令和最初のキングオブ駄作と言ってよいと思う。語彙力が足りないので端的に「駄作」というしかない。何から何までダメで褒めるところがほぼないので、逆に新鮮であった。今の世の中、金主からカネを集めるのも難しいと思うのだが、そんな中でここまでヤバいレベルの作品が成立できるのか! という新鮮な驚きすらあった。ではどの辺がダメなのか? 具体的に見ていこう。
ストーリー後半のちゃぶ台返しが致命的にド下手
多くの人が批判しているのもこの点だろう。一応説明(ネタバレ)すると、クライマックスにいきなり画面全体がバグって、コンピューターウイルスを名乗るキャラクターが現れる。そしてこのコンピュータウイルスは、主人公に対して「これはただのゲームだ」「大人になれ」「現実に帰れ」とやり始めるのである。どうやらこの世界は、主人公がゲームセンターのようなところでプレイしていたVR的なゲームにすぎず、そうした「現実逃避」に対して「大人になれ」というメッセージを伝えたかったようだ。
明らかに創作者の主題はここにあったと思うが、これが致命的にドヘタクソなのである。おそらく熱心なファンや、それほど深く考えずに(あたりまえだが、エンターテイメントというのはそういうものだ)作品に接した人は唖然としたのではないか。それはそのはず、カネを払ってエンタメを観に来たのに、いきなり「これはただの虚構だから、現実に帰れ」と言われたら、「はぁ?」という感情になるのは自然なことであろう。それを言い出したら映像作家など存在そのものが虚無であると思うのだが、そういう再帰的な問いはなかったのだろうか。むしろこうした自己言及なくして、何故このような(安易な)メタ描写を主題に据えたのであろうか?
わたし自身はこの虚無に対しては特段の感情を持たなかった。確かにぎょっとしたが、それ自体はまああまり感情を動かされなかった。むしろ感情的にどうしても捨て置けないのは、「どうせこのネタをやるならもうちょっとうまくやれ」、そして「別に大して真新しいネタでもないのに、ドラクエみたいなメジャータイトル使ってなぜこの陳腐な主題をやろうと思ったのか?」という点に尽きる*1。
もう少し掘り下げてみよう。この手のメタ演出は通常、かなり高度な技術が要求されるので、安易にやってしまうとエンターテイメントとして成立せず、せいぜいパロディーくらいにしかならない。例えば先日も『トネガワ』や『一日外出録ハンチョウ』における自己言及的な作風に対してコメントしたが、実際、こういう「お約束」は、演出の手法と元ネタが飽和した近年のエンターテイメントではむしろ「あるあるネタ」になってしまっていて、消費者はこのくらいのちゃぶ台返しではいちいち驚いたりしないし、うまくやれば視聴者の間に一種の共犯意識が生まれ、エンターテイメントとしても成立させられ得ただろう*2。
なぜこのメタ描写、もう少しわかりやすく言うと自分の世界観を自らぶち壊す「夢オチ」が禁じ手として多くの作家に戒められていたのもわかるであろう。これをやってしまうと、あらゆる意味での作品としての信頼を一瞬で失う。エンターテイメントというのはメディアを問わず、ある種のプロレスみたいなものであって、虚構をいかに作り手と受け手の間で試すか、という技巧なのであって、その構図自体に作者自身がツッコミを入れるというのは自殺行為でしかない。はっきり言って、現実と虚構の区別がついていないのは、かつてあらゆるテレビゲームを「ファミコン」と言って忌み嫌い、ゲーム脳などという謎ワードを生み出した団塊世代だけなのではないか(暴言)。きょうび、この令和の時代にゲーム内容と現実を相対化できていない(ゲームやアニメの世界を現実の世界と混同してしまう)ような人はほとんどいないであろう。特にドラクエの場合、『4コマ劇場』などをはじめ、当時から世界観に対するセルフツッコミはふつうになされており、全然珍しくもなんともなかった。
中にはもちろん、この構図そのものを主題にした作品が成立することもある。たとえば1997年の劇場版エヴァンゲリオンのように、意図的に作家側が視聴者に冷や水を浴びせる試みがなされた例はあろう。当時かなり賛否両論が巻き起こったと記憶しているのだが、あれは文字通り「賛否両論」であり、エヴァンゲリオンに心酔していた多くのオタが発狂したのも、いわばイラン革命のときにホメイニ師のところにいきなりアラーが現れて「アラーなどいないよ」と言うに等しいことをやられたからだろう*3。だから劇場版エヴァは作品として面白かったのだが、今回忘れてはいけないのは、これは90年代のエヴァではなく、ドラクエなのである。これほどまでに分かりやすい例をとって、なぜプロの作家がこういうベッタベタなメタ叙述をやろうと思ったのか? 意図が分からなさ過ぎて不気味さしかのこらない。そんな気持ち悪さがいっぱいの怪作であった。
声優が下手
またこれは別の話だが、とにかく声優が軒並み下手くそすぎて、それだけでも作品に集中できない。なぜプロの声優を起用しないのであろうか。この辺は邦画アニメの宿命ともいえよう。
本編が雑
これも主題である「ゲームだから」という理由付けができる、という擁護もできるのかもしれない。つまり「ゲームだから、自分で勝手に懐古厨仕様に設計してるから面白くなくなっているんだよ」というメタ描写ということなのだが、このエクスキューズが限りなくサブすぎる。面白くないのをあらかじめ防御して、主題に含めるという、二重のサブさである*4。
まあ一介のドラクエファンとしては、呪文の扱いが変だとか、魔物使いの解釈とかのほうがムカつくわけだが、これはあまり評論ぽく無いので今回は措いた。ということで、いろいろけなしたが、令和最初の怪作であることは間違いない。怖いものみたさで観る価値はあるだろう。往年のドラクエファンは、やめておいたほうが良いかもしれないw
パークハイアットと新宿中央公園
タイトルをみてピンと来た人はいるだろうか。もしピンと来たら、その人はきっとわたしと気があうと思う。
いきなりネタバラシをすると、これは橘玲氏のベストセラー『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』のあとがきの名文である。ちなみにこれは本を買わなくても、氏のブログで無料で読めるので気になった向きは是非ご一読をお勧めしたい。
何やら格調高い詩的な表現であるが、それであるがゆえに、本文を読んでいない人にはこの特殊なセンチメンタリズムは通じないのではないか。正直に白状すると、わたしもわかっているわけではない。文章の調子は非常に好きなので、折に触れて何度も何度も読み返しているのだが、残念ながら次の一節の意味するところが全くわからないのである。
あなたは、ホームレスとなって、残飯を漁って生きていく現実をこの目で確認しなければいられない、そんな衝動に駆られたことがあるでしょうか?
橘氏は今も精力的に新刊を出されているが、最近の著作はほとんど過去の焼き直しなので、あまり読んでいない。が、初期の主要な作品は何度も愛読しており、わたしはかなりの強度で橘教に侵されていると言って良い。過去にもこのようなエントリーをあげたことがあるくらいだ。そんな橘玲信者のわたしが、氏の主張をほぼ正確に理解しているはずのこのわたしが、なぜこの一文の意味が全くわからないのだろうか。
これはおそらく、わたしが本当の意味でリスクをとっていないからであろう。すでに株式投資ではかなりの負けを喫し、ここのところの米中貿易戦争の煽りを受けた日本株の含み損は酷い有様である。一方で、FXや仮想通貨などの新しい賭けに出ているわけでもなく、海外の銘柄に手を出しているということもない。ただ漫然と現物で負けているだけなのである。つまりは、リスクをとっているわけでもなく、リターンを得ているわけでもない。
橘本を読み始めて早15年、「黄金の羽根」の存在を知ったは良いが、それ以来一度も「黄金の羽根」を拾うことはできずにいる。おそらくこれからも、永遠のワナビーとして「黄金の羽根」が落ちるのをただ眺める生活を送ることだろう。