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センター試験と科挙

今日、センター試験の2日目が終わった。受験された方々はおつかれさまでした。今年は受験者数が50万人を超え、昨年に比べても多少増加しているとのことだ。少子化が進む中でも、折からの不況でますます大卒切符を求める人が増えているということだろうか。

 

わたしが受験生の頃は、ちょうど偏差値教育の弊害がどうのこうの、学歴だけが人生じゃない、というような浮世離れした言論が流行っており、今で言う「ゆとり教育」がはじまるかはじまらないか、という世相だったと記憶している。このあたりに関する議論は、今考えてもあまり実のある議論はなかったと思うし、文字通り「机上の空論」という印象がつよい。まあ、要するにそういう無駄なことをやれるだけ、日本もまだまだ豊かだったということかもしれない。

 

ところでセンター試験といえば、その試験の方式がマークシート式ということから、多くの批判がなされている。批判の骨子は、要約すれば「記述式ではないから考える力が失われる」というような内容だろう。

 

わたしは大学入試センター試験というのはよくできたシステムだと思うし、日本の教育レベルを下支えするすぐれたインフラだと思う。ポイントは、

 

  1. 高校で履修する学力の確認、
  2. 個別の大学で実施する二次試験に向けた足きり
  3. 毎年50万人を超える受験者を一律にさばく

 

の3点で、こうした実務的な目的を考えればマークシート式以外の選択肢はあり得ないと思うのだが、いかがだろうか? これ以外に公平なシステムがあるなら是非、運営も含めた設計を見てみたいものだ。

 

歴史を紐解けば、教育というのはエリートのためのもので、庶民は実質的に教育機会がないほうが常態であった。どこの国でも政治は貴族が運営するものであり、庶民は参加する権利などハナからないのだから当然といえば当然である。しかし、中国では、昔から「生まれ持った階級」を飛び越える方法として「科挙」というシステムがあり、庶民にも(一応)出世栄達する道が拓かれていた。この試験に合格さえすれば誰でも官吏として取り立てられるわけだから、現在の水準で考えても非常に公平で進歩的なシステムといえよう。もちろん庶民は農作業や重労働に忙しく、そもそも科挙を受けようなどと思うことすらないだろうから、実質的には試験勉強ができるのはエリートの子だけだった。そういう意味では字義通り「公平」だというのは憚られるが、根本的な哲学は「条件は試験に合格するだけ」というものだから、出自を問わないという面で進んだシステムであるといえる。問題だらけの儒教における唯一といってもいい美点だろう。

 

現代においては、出自の貴賎によらず、全国どこにいてもほぼ均質な教育機会を得られるというのは当たり前のことだ。これは当たり前すぎてあまり言及されないが、やはり教育機会が均等に拓かれているというのは素晴らしいことであると思う。とはいえ、さいきんはこの「均質さ」がだいぶ失われてきており、貧富の格差や地方と都会の格差がそのまま教育の格差につながっているという話も聞く。そういう課題は依然として残るにせよ、やはり生まれが貧しくても、親がダメでも、試験一発で可能性が開ける教育システムは守っていって欲しいと思うし、その入り口としてのセンター試験に期待される役割は引き続き大きいと考えるものである。