One of 泡沫ブログ

世の中にいくつもある泡沫ブログの一です。泡沫らしく好き勝手書いて、万が一炎上したら身を潜めようと思います。※一部のリンクはアフィリエイトです

ブラック企業雑感

わたしは以前『One of 泡沫書評ブログ』というタイトルで、その名の通りインターネットという大海に浮かぶうたかたのような書評ブログを書いていたのだが、たまに社会時評めいたことも書いていた。その中で、今でも思い入れのある脱社畜系というか、世捨て人系というか、まあその手の業界(?)のことが好きな人は誰でも知っているサイトについて言及したことがある。『One of 泡沫書評ブログ』はもうずいぶん前に更新をストップし、今はこのブログにリニューアル(笑)したのだが、旧ブログは二つのサイトに言及したエントリだけは今でもちらほらとアクセスがあるようだ。

 

このように常々「社畜」だの「働き方」だのについては人並みに関心があったのだが、それに加え、最近はインターネットの外でも「ブラック企業」とか「社畜」とかいうワードを耳にすることが増えた。乱暴に言ってしまえば、こうしたキーワードが「キャズムを超えた」のであろう。いまのトレンドは新書のタイトルにもなるくらいで、労働者側が労働基準法が云々ということで自衛したり、企業に応募する前にブラック企業かどうかをまず検索する、というようになっているらしい。昔といえば、自由を奪われた社畜たちはインターネットの片隅で呪詛を吐き、できることといえば泣き寝入りか、そのまったく正反対の「国外脱出」を目指すか…両極端な選択肢しかなかったあの当時の状況から比べると、すくなくともネット世論に関してはずいぶんとまともな時代になったものである。といっても、あの頃からまだ5年も経っていない気がするが…。

 

ところがこの話題、今の雰囲気をざっくり俯瞰すると、「ブラック企業くたばれ」の論調一本でなかなかどうして非生産的な印象がある。わたしは所謂「ブラック企業」に居たこともあるので、その実態はよく知っているつもりだが、それでも、今のブラック企業批判、社畜批判はあまりにも一面的で、めぐりめぐって我々労働者の首を絞めるのではないかという気がしてならない。

 

ブラック企業そのものは、労働法というルールを無視して走っている、いわば無法者であるわけなので、社会から駆逐されるのはもちろん理にかなっているし、法治国家としては当然の帰結であるといわねばならない。だが、ビジネスというのはそんなに杓子定規で、かつキレイごとばかりで駆動しているわけでもない。これは、日本の中だけでどうのこうのというわけではなく、グローバルに競争している企業だって、実際のところどれほど労働法を守っているのかよくわからないわけだし、われわれは必ずしも国境線の内側だけで競争しているわけでもない。(余談だが、わたしの見聞きする範囲では、所謂外資系の日本法人ほど労働法を守っていない。○本○BMとか、ア○セン○ュ○とか…)

 

もちろん、理想的にはすべての企業が労働法というルールを守って、その中で健全な競争をすることが求められるのは正論である。これにはわたしももろ手を挙げて賛成したいし、できることならそういう世の中になって欲しい。だが、実際にはたとえば労働基準監督署の体制が100倍くらいに強化されるとか、日本人全員が天啓を受けて人格が変わるとか、そういう極端な変化でもない限り、ベースとなる労働観は一朝一夕には変わらないだろう。こういうブラック企業を取り締まれ、という空気だけが先行し、企業悪玉論になってしまうと、まともな企業はますます人を雇うことがダウンサイドリスクであると考え、雇用そのものが減ってしまうのではないだろうか。そして、交渉力のない労働者はさらにアンダーグラウンドなブラック企業から搾取されてしまうのではないか。公式には「ブラック企業」はなくなるのかもしれないが、なかったことにされるというのは相当たちが悪い。

 

わたし自身はなにか具体的な名案があるわけではないのだが、上記の理由からすくなくとも善悪二元論で企業が悪いと連呼するだけではなにも改善しない(むしろ悪い方向へ行く)と思うので、労働者側も「私怨」をぐっとこらえ、あくまで攻撃すべきは自分を搾取した「その企業」だけにし、世の中の「ブラック企業」を一般化して攻撃することだけは止めた方がよいと思うのである。