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桐島、部活やめるってよ

 

【ネタバレ】

 

はじめにお断りしておくと、原作のほうは未読。ではなぜこれを観てみようかと思ったのかというと、たまたま町山さんの解説を読んで興味を持ったから、であります。

 

映画評論家の町山さんの『桐島、部活やめるってよ』の解説が素晴らしかったので、全文書き起こしてみた。

【復習編】完結!町山智浩さんの『桐島、部活やめるってよ』の解説が素晴らしかったので書き起こしました。

 

その解説は上記リンクのとおりです。正直言って、町山さんの解説は完璧かつ網羅的すぎて、その他の批評や解説がまったく無意味になってしまうんではないかと思うほどです。なのでいまさらわたしのようなトーシロがああだこうだ言うのは意味がないかもしれないのですが、この作品自体が「複数の登場人物の視点で描く」という手法をとっているのですから、批評もまたこうした微妙な視点から加えるのも意味があるというものでしょう。

 

さて、言い訳はこれくらいにして。

 

本作の登場人物たちは、せりふは多いものの、実際何を考えているのかはあまり明確に説明がなされません。言い換えますと、登場人物の心理描写はただ暗示されてるのみで、観る人によって多様な解釈が可能というか、ことによっては何がなんだかよくわからない、モヤモヤ感の残る作品ではないかと思われます。ふつうの作品であれば、登場人物の心理描写はモノローグのようなかたちで言語化され、観客は「神の視点」で安心して物語を堪能できるものですが、その辺が突き放されています。

 

表層的なところだけを見れば、本作はスクールカーストの気持ち悪さや同調圧力の気持ち悪さなど、(おそらくは)大多数の人が多かれ少なかれ経験する青春時代のダークサイドを、これでもかというほどのリアリティでもって描いておりますので、観客は自分自身の学生時代の記憶と、作品がかもし出す厭~な雰囲気がないまぜになって、端的に言えば「不快感を感じる」人がほとんどなのではないかと思います。しかもさらに悪いことに、その不快感すらも理解しやすいかたちで「言語化」していないがために、後半のカタルシスがまったくもって理解しがたいものになっているようです。たとえば前田君たちが全校生徒の前で表彰される際に嘲笑されるとか、酷いタイミングでかすみちゃん(バドミントン部)がイケメン集団のひとり(アフロ)と付き合っていることが判明するとか、沙奈ちゃん(宏樹君の彼女)が沢島さん(吹奏楽部部長)に見せ付けるような接吻シーンだとか、そういう「残酷さ」は非常にビジュアルですから、見れば誰にでも分かりやすい。しかし、そのカウンタである沢島さんの会心の演奏だとか、クライマックスのゾンビ(の幻影)がかすみちゃんを食べちゃうところとか、弘樹君の前田君へのインタビューとかはめちゃくちゃ分かりにくい構成となっており、前田君や沢島さんに感情移入する観客は(作品自体がこれらの人たちに感情移入するように設計されているにもかかわらず)容易にカタルシスが得られず、意味が分からないという酷い映画になっております。まったくユーザフレンドリではありません。これでは低評価も致し方ないというものでしょう。

 

おそらく、町山さんのように、よほどこうした機微にすぐれたというか、ふだんから色々な作品に触れ、本質的なテーマを切り取ったり、感情を言語化する訓練をしているプロでもない限り、「意味が分からん」「なんなんだこれ」という反応もむべなるかな、というものでありましょう。だって登場人物の誰も、なにも説明していないんだから。むしろそれが普通の反応といえるでしょう。かくいうわたしも同じで、たぶん町山解説を読まなかったら、単なるスクールカーストの文脈でしか読んでいなかったかもしれません。

 

町山さんは、前田君が沢島さんに「それ、遊びですか?」と詰問されて口ごもるシーンが哀しかったとおっしゃっています。

 

僕が悲しかったのは、ゾンビ映画を撮っているという話をした時にですね、吹奏楽部の女の子の亜矢ちゃんがですね、「それ、遊びですか?」って言うんですね。「いや、そうじゃないんだけど」って前田くんは言うんですけど、どう聞いても遊びにしか聞こえないよと、これはねえ、僕は人生の中で何度も言われました。

 

http://matome.naver.jp/odai/2137631236509407601/2137631742011967703

 

わたしも、前田君が映画部の顧問にロメロの話をするくだりで、不覚にもぐっと来てしまいました。

 

この映画みんながいいたいことを言おうとするとそこで切るというですね、言いたいことを言わせないから観客が考えろっていう形になっていますけど、この前田くんが映画秘宝を大好きで、ゾンビ映画撮ろうとしてシナリオを顧問の先生に見せるとですね、こんなんじゃなくてもっと青春のちゃんとした自分の身の回りのことを描けよ、もっと自分自身のことを描けよと。恋愛とかさー、受験とかさー、友人関係とかさ-とか言うんですよ。そのほうがリアリティあるだろうと、ゾンビのほうがリアリティないだろうと言うんですね。実はこの映画は青春映画であって、受験とか恋愛とかを描いているんですけども、でも前田くんにとっては違うんですよね。

前田くんはその時にどういうふうに反論するかと言うと、先生はジョージ・A・ロメロの作品見たことありますかっていうんですね。ところが先生は、そんなマニアックなものみたいな話をして、話がそこで途切れちゃうんですよ。でも何を言おうとしたかってとこなんですよね、前田くんは。

 

http://matome.naver.jp/odai/2137631236509407601/2137631742011967703

 

こういう、自分がやっていることが、多数派のものと違うときに感じる疎外感、「ああ、これはもう説明しても駄目なパターンだ」という諦念は、なかなか言葉にしづらいものがあります。ひとりや同好の志の間だけでやっている限り、一般に説明する義務もないので問題ないわけですが、何かの拍子に一般社会と重なり合ってしまうと、急に説明する義務が生じるわけです。好むと好まずにかかわらず。そして、得てしてこのようなケースでは、どのように言葉を尽くしたとしても、社会からどういうリアクションが返ってくるかは、ほとんど予定調和なのです。「気持ち悪い」「意味が分からない」「なんでそんなことするの?」「結局、キモい」等々。単に理解されないだけであれば、別に問題ないのですが、場合によっては謂れのない迫害を受けるケースすらあります。この映画は、その辺をじつによく活写しています。前田君たちの「隕石」が、バレー部にとってはゴミであるということは社会的な事実といえます。あれはただのゴミであり、桐島探しという大事の前には、映画部はただただ邪魔な存在そのものです。あれが映画でなければ、おそらく誰もがバレー部の立場にたち、映画部を邪険に扱うでしょう。

 

しかし、町山解説でも明らかなように、この作品は最後に救いを描いているのでしょう。さいごに強いのは自己を確立した人か、信仰のある人だけだという解釈。おそらくこの作品を寓話として捉えれば、ここで描かれているスクールカーストというのは広い意味での社会そのものなわけです。容姿や能力こそが力の裏づけであり、社会的評価はそうした社会的な力にリンクしているというものです。社会的な力にリンクしていない力、つまり吹奏楽であるとか、映画に対する造詣などは、他者を従えるという意味での力は有していないのでこの社会では「無価値」です。桐島というのは、まさにこの社会を形作る価値観の基準としての存在です。しかしながら、そういう価値観が通用しない世界こそが、その人を支える自己そのものであるということではないでしょうか。前田君には映画がある。沢島さんには吹奏楽がある。

 

人生というのは一筋縄ではいかないものですね。