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TOEICと「英語ができる」

先日、勤め先の好意でTOEIC IPテスト*1を受けることができたのだが、Listening 465 / Reading 425で、トータル890とまずまずの結果であった。一般に、よくあるTOEIC対策本は600/730/860くらいで点数の閾値を設けているので、この数字は(IPテストとはいえ)日本においてはいわゆる「Aクラス」、すなわち「英語ができる」とみなされる水準といえるだろう。

 

ご存知のとおり、TOEICはListeningとReadingのみが出題されるマークシート方式のテストであり、WritingおよびSpeakingの能力は「間接的」にしか計測することができない。したがって、多くの人が指摘しているように、語学の全般的な習熟度を測るには不十分なテストであることは疑いようがない。実際、日常的に英語を運用する経験のない人でAクラスを達成した人の中には、わたしのように実務上の運用能力が殆ど無いという人も多いのではないだろうか。語学というのは「使う」ためにあるのであって、「使う」場が無いのに試験で良い点を取る「だけ」というのは、江戸時代の軍学や、道場剣法のような哀しさを感じる。

 

こうした状況を皮肉ってか、巷間よく耳にする議論として「TOEICなんてできても英語ができるわけではない」というのがある。しかしこの話に限らず、よく言われる「英語ができる」というのは、いったいどういう状態なのだろうか? その前に、そもそもTOEICは「英語ができる」かどうかを計測するテストと言えるのだろうか? 前述のとおり、テストそのものはListeningとReadingが出題されるものであって、当たり前の話だがある一定の「聞き取り能力」と「読み取り能力」を計測するだけのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。出題に含まれる語彙も非常に限定的だ。したがって、TOEICとはそういうものだと思って活用すれば事足りるのだが、なぜか拡大解釈されたり、無闇に攻撃されたりする、じつに切ない試験である。それだけ受験者が多く、活用している企業が多いということなのだろうが…。

 

とはいえ、こうした「TOEIC無用論」が出てくること自体、「TOEICさえやっておけば英語力が測れる」というような雑な理解をする人と、その全く逆で「TOEICの点数と英語の運用能力になんら相関が無い」と考える人がいることを示唆しているのは、あながち穿った見方でもないだろう*2。たしかに言語の運用能力という、計測することが非常に困難なものを評点化しようとすると、さまざまな意味で単純化(というよりもむしろ量子化といえるかもしれない)せざるを得なくなるのは事実だ。たとえば自分の母語を考えてみても、「日本語ができる」というのを正確に定量化しようとすると、ちょっと考えただけでもその難しさに気づく。語彙レベルの定義や、受け答えの正確さなど、果たしてどのような設問を設計すれば運用能力が測れるのだろうか? いわんや英語においておや、である。忙しい現代人にとって、こうしたことを厳密に考える暇はないだろう。となると手っ取り早く「英語ができる」「英語ができない」というラベリングをしてくれるTOEICというのは、「無用論」「万能論」どちらにとっても便利なツールと言えるのではないだろうか。

 

話は少し飛ぶが、さいきん見聞きした言葉に「機能的非識字」というのがある:

 

非識字者は、読み書きが全くできない。これとは対照的に、機能的非識字者は、母語における読み書きの基本的な識字能力は有していながら、さまざまな段階の文法的正確さや文体などが水準に及ばない。つまり、機能的非識字の成人は、印刷物に直面しても、現代社会において機能する行動ができないし、たとえば 履歴書を書く、法的な契約書を理解する、指示を書面から理解する、新聞記事を読む、交通標識を読みとる、辞書を引く、バスの運行スケジュールを理解する、などの基本的な社会行動をとることができない。

機能的非識字 - Wikipedia

 

わたしは英語学習を続けているときに、こうしたことが頭をよぎることがある。わたしは確かに英語の運用能力はそれほど高くないが、少なくとも日本語の運用能力は人並み以上にあると思っている。少なくとも新聞を読んだり新書を読んだりする程度のことではまったく抵抗はないし、どちらかというと活字を追うこと自体が好きなほうである。日本人の平均値に比べると本も読んでいるほうに属すだろう。こうしたことをかんがみると、たとえば同じ日本人が相手でも、会話における語彙の制約や背景知識の有無、基本的な論理的思考能力の差によって意思の疎通が困難であると感じることがたまにある。こうした経験を思い出すと、はたして「日本語ができる」というのはどういう状態なのか、正直よくわからない。

 

母語である日本語ですらそうなのだから、いわんや英語をや、であろう。どういう水準になったら「英語ができる」と判断してよいのか、まったく自信がない。ということで非常に個人的な、まったく一般化できない経験からあえて強引に敷衍すると、TOEICというのはどのくらい英語ができるかを計測する試験ではなくて、どのくらい英語ができないかを測る目安として利用するくらいがちょうど良いのではないか。わたしは学生時代500点~600点くらいだったのが、こつこつ勉強することでTOEICの点数が600点台、700点台、800点台と伸びた*3ので、その経験に照らすと、だいたい800点くらいから上でようやく「非常に限定的だが、まあ相手がnon-nativeとして敬意を払ってくれる前提であれば、必要最低限の意思疎通ができなくもない」水準に達するのではないかと思う。逆に言うと、800点に到達しないのであれば、それはもう「英語ができない=殆どの状況下において現実的なコミュニケーションを行う運用能力が不足している」と考えてよいのではないだろうか。

 

なお英語の運用能力を計測するという観点では、「TOEICなんて意味が無い」というような雑な議論をするまでもなく、CEFRという信頼できる指標がすでに存在しているので、そちらを参照すると良いだろう。また、留学のときに参照するTOEFLやIELTS、ビジネス向けの英語力を検定することができるBULATSなど、用途やレベルに応じてさまざまな種類の検定試験が存在する。「TOEICなんてい意味が無い」というほど英語に興味があるのなら、まずは自分の目的にあった検定試験を探すか、もしくは試験で測ること自体がナンセンスとなるレベル、すなわち母国語と同様の水準まで鍛え上げればよいだろう。その際には以下の本が参考になると思われるので、参考まで掲載する。わたしが書いた過去の書評はこちら

 

 

*1:Instructional Programテスト。過去のテストの使いまわしを団体で受けるテスト

*2:他にも、「東大卒なのに使えない」という類の議論もこの手の話でよく耳にする話だ。東大卒は社会生活や企業生活におけるすべての能力が優れていることを保証するものではないし、観測した東大生がそのほかのすべての東大生を代表しているわけでもない。東大生は学力が概ね一定以上である蓋然性が高いというだけに過ぎず、議論する人が学歴というものに何らかのバイアスを持っている可能性のほうが高いといえる

*3:ちなみに10年以上かかっている