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【書評】中間管理録トネガワの悪魔的人生相談

 

本編のカイジヤンマガ本誌でしか読んでいないが、スピンオフギャグの『中間管理録トネガワ』と『一日外出録ハンチョウ』はなぜか単行本もつい買ってしまう。

 

『トネガワ』も『ハンチョウ』も完全に悪ノリのスピンオフだが、両者とも『カイジ』の世界観をネタにしたメタな視点でのパロディーを繰り広げてくるので、もはや本編の『カイジ』がギャグにしか見えなくなってしまった。『北斗の拳』や『魁!男塾』などでもそうなのだが、荒唐無稽なハードボイルド設定は一歩間違えるとギャグにしかならないので、制作サイドとしてはそのバランス感覚が重要なのであるが、昨今はむしろ制作側が開き直ってメタ的なパロディーを大っぴらにやってしまうケースが多い。

 

これはビジネス的に「売れる」からであろうが、正直言うと読者のほうも、制作サイドにこれを大っぴらにやられると、本編を読むときのテンションも下がってしまう。これは如何ともしがたい。しかしこれも、ビジネス的な観点で昨今の出版業界やコンテンツ界隈では致し方ない傾向なのであろう。似たようなシリーズに、『金田一少年』や『転生したらヤムチャ』などがある(他にもたくさんあると思う)が、商業誌のセルフ二次創作はとどまるところを知らない笑。わたしのようなロスジェネ世代に向けた「懐古厨ビジネス」といったところであろう。

 

さて本書はその『トネガワ』のさらなるスピンオフシリーズで、いわばスピンオフのスピンオフと言える。体裁としては、帝愛のナンバー2である利根川幸雄が読者からの相談に答えるというもので、我々世代にはかつて『ホットドックプレス』で人気を博した北方謙三大先生の『試みの地平線』みたいなものだと言えば伝わるのではなかろうか。相談者がどこまで本当の相談者なのか、全編ネタなのかは知らないが、非常によくできた「あるある」の相談ネタ25本からなる、なかなかのボリューム感で読みごたえがある。

 

率直に言って最初はただのネタ本だと思いあまり期待せず読み始めたものの、意外にも硬派な回答が多く、ビジネス書としてはなかなかの迫力があった。実際、人生も折り返しに差し掛かったわたしのようなロートルからみても頷ける内容が多い。乱暴にまとめると、読者からの甘えた相談に対し、リアリスティックな視点でトネガワ節をぶつというパターンが延々続くというものではあるが、自分の人生が上手くいっていないくせに、他人にはやたら居丈高になる我々のようなロスジェネ世代にはピッタリの清涼剤となるだろう。

 

一点気になるのは、多少、わたしの中での「トネガワ」が言いそうなセリフと微妙に乖離した言い回しが多いことである。ちょっと、トネガワっぽくないのである。それを措けば、福本シリーズに親しむ諸氏にとっては概してお勧めできる一冊である。

人身事故に関する愚考

先日、JR品川駅にて人身事故があった。

 

わたしもちょうど取引先からの帰りに山手線に乗っていたため、そのときの混雑に巻き込まれてしまった。一緒にいた同僚と30分くらい待っていたのだが、疲れていたこともあってか判断を誤り、途中で別の路線に乗り換えようとしてさらなる混雑に巻き込まれてしまった。

 

しかし、ちょうど帰宅時間に差し掛かったタイミングだったので、東海道線(含む山手線+京浜東北線)の輸送量を並走する路線で吸収するのは難しかったのであろう。振替路線はわたしと同じように振替乗車を急ぐサラリーマン諸氏でごった返しており、完全にパンクしていた。混雑電車が嫌すぎるので、結局わたしはもう少し大回りのコースで迂回して帰ったのだが、無駄な運賃を払っただけでなく、余計に時間がかかって、ヘトヘトになりながら帰宅したわけであった。

 

ちなみに同僚はそのまま待っていたら山手線の運転が再開し、わたしよりもはるかに早く、かつ楽に、目的地についたとのことであった。ここでの教訓は、下手に動かない方がよかったということであろう。行動経済学的に言えば典型的な悪手である。わたしが株式投資で失敗を繰り返しているのも偶然ではあるまい。

 

思い返すと6年前にも、同じ時期(5月)に人身事故に関するエントリーを上げていたようだ。

 

nerdman.hatenablog.com

 

今回、わたしはこれと同じようなことを考えながら、混雑する電車に突進する人々を眺めていた。5月の連休明けというのはそういうタイミングなのかもしれない。セル・イン・メイとはよく言ったものだが、折しも令和になってからの株価は米国も日本も冴えず、大幅な下落相場となっていたこともこの事故の遠因なのではないか。わたし自身、ポジションをかなり下げていて勤労意欲が失われていたことは事実だ。仕事も冴えず、ポジションも冴えないというのは確かにつらい。

 

 

人身事故のような、ぼーっと考える時間があると余計なことを考えてしまう。満員の振替路線に乗ろうとして乗れず、イライラしている自分を客観的に見ていると、自分が情けなくなってくるわけである。

 

 

どういうことかというと、例えば先ほどの同僚氏の例のように、山手線車内で待つ選択をした人は、再開までの時間を座って待つことができる(他の人も同じように振替に急ぐので、対照的に山手線内はがら空きになる)。これも一つの勝ちパターンであろう。わたしはそれに乗れなかった。とっさの判断で負け犬コースを選択してしまったわけだ。

 

一方で、例えば高輪や麻布のような所に住んでいるケースであればどうだろうか。迷うことなくタクシーを拾い、わずかな追加投資で何事もなかったように帰宅することができるだろう。あるいは、仮に遠方に住んでいたとしても、懐に余裕があるようならば、距離に関わらずタクシーという選択肢を取り得ただろう。わたしにはそれができなかった。

 

そもそも、取引先に自分から出向かなければならないという時点でもう負けているのかもしれない。もしこれが自宅で仕事ができるような立場であれば、初めから人身事故などの影響は極小であろう。わたしは当然務め他人なので、この選択肢も初めから論外だ。

 

あるいは、全く別の観点で、パッと気分を切り替えて、電車が動くまで一杯やってから帰ろうという判断ができた人や、カフェで仕事をしてから帰ろうという人もいたかもしれない。カバンの中に入れっぱなしでなかなか読むきっかけのなかった本をじっくり読めたという人もいたかもしれない。いずれも、突然に発生した隙間時間を有効な時間に替えられたという意味で大変な勝者と言える。

 

…などと、様々な考えを馳せながら帰途についたわけである。わたしの基本的な防衛機制は、コントロール不可能な出来事があったときには、事前に予防策や代替策を取れない自分の不甲斐なさにしょんぼりするというパターンが多い。さて、皆様はどう思われたであろうか。

 

 

ミドルライフクライシス

久々にログインしてみたら、最後に記事を書いたのはもう4年も前のようだ。4年。長いような短いような、子供にとっては4年というのは非常に長い時間だが、オッサンにとっては4年というのはあっという間であった。

 

アラサーだと思っていたらもうアラフォーである。周囲を見渡すと優秀な同世代(といっても勿論面識はなくただ単に歳が近いというだけの方々)は、イケてる組織の上位管理職になってビジネスを文字通りドライブしていたり、中には起業したり、ボードメンバーとして経営に携わっていたりするような方もいる。かたやアカデミアの世界では准教授や教授として活躍される方も多い年代だろう*1。端的に言えば、30代~40代というのはビジネスマンや専門家として、体力、気力、経験ともにバランスよく油が乗り切っている時期なわけだ。違う視点で見れば、この世代というのは、これまで過ごしてきた人生というのが露骨に反映され、いよいよ人生というゲームで勝ち組と負け組の旗幟が鮮明になってくる時期といえるだろう。昔好んで読んでいた古谷実先生の漫画でも「30代っつったらアレだよ~戦国武将なら油が乗り切ってる歳だよ~」とかいう短編があったような気がするがまさにそれだ。

 

乱暴にまとめると、30~40というのはもう勝負がついた歳といえる。わたしは、当然ながら敗者のほうに位置するわけだが。。。

 

あらためて考えるまでもなく、40歳というのは文字通り人生折り返し地点だ。男性なら運よく平均寿命まで生きられたとしても、あと40年しか残されていない。その40年のうち、体が動く時間はあとどれくらいで、まともに働いて稼げる時期はどれくらいだろう。「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い。」という李徴*2の名言が身に染みる。

 

あと40年。むろん、これも運が良ければの話だ。もし寿命が60なら残りはわずかに20年。20年しかない人生、残り何をして過ごすか? 今わの際に後悔しない生き方ができるだろうか。やりたいことをやりきったとか、自分の信念に従って行動したとか、子供を無事に育て上げたとか、最後に周りのひとたちに笑って送ってもらえるような人生を歩んでいけるだろうか、とかとか。悩み始めたらきりがない。

 

人生は本当に短い。この40年を振り返って、何かを為したかと言われれば回答に窮する。過ぎ去った年はもう取り返しがつかない。ここまで来た40年近くの人生は、良くも悪くも自分自身そのものだ。誰のせいにもできないし、どんなに不格好でも仕方なく自分自身で受け止めるしかない。そしてそれは、これから先も同じだ。残り何年かわからない人生を、1日1日大切に噛みしめて生きるしかないだろう。

 

*1:実際、大学の同級生には教授センセイになっているのもいる

*2:中島敦の『山月記』でおなじみ。ちなみに中島敦氏はWikipediaによれば33で亡くなられたらしい

兵士は起つ

 

杉山氏の自衛隊に関する著作は、本書を除けばこれまで都合3冊ほど読んだことがあり、どれも非常に感銘を受けたように思う。残念ながらかなり昔のことなので、内容はおぼろげにしか覚えていないのだが、それぞれ陸、海、空について取り上げた秀逸なノンフィクションであったと記憶している。「日陰者」として国民から複雑な目で見られ続けていた我が国軍、すなわち「自衛隊」という組織が、緻密な取材によってこれまでとまったく違った角度からライトが当てられるといった趣で、おそらく極端に偏向した左翼でもない限り、今までとは違った自衛隊像を目撃するに違いない。正直言ってかなりお勧めのシリーズなので、未読の方はぜひ手に取っていただきたいと思う。

 

 

さて本書『兵士は起つ』は、たまたま帰省したときに立ち寄った地元の本屋で見つけ、久々に目にした杉山氏の名前につられて買ってしまったものだ。ここのところ、こうした類のノンフィクションから遠ざかっていたので、移動中の暇つぶしになるだろうという軽い気持ちで求めたのだが、読んでビックリ、これは東日本大震災に際して災害救助に当たっていた当時の自衛隊隊員から取材した内容であった。一言でいうならば、重い。非常に重い。とくに、登場人物たる隊員たちの中に同世代(30代)が多く登場し、彼らの家族をめぐる描写などは、お盆で空いた通勤電車の中で読んでいたら不覚にも涙が出そうになってしまった。この時期報道が活発になる「御巣鷹山」の回顧も相俟って、あらためて生と死は紙一重であり、人はいつどこで死ぬかわからないということを深く考えてしまった。

 

自衛隊をめぐっては、昨今の安倍政権憲法改正の動きをうけて、にわかに左翼が活発な言論活動をしているのが目に付く。これについては言いたいことが山ほどあるわけだが、今回はそれは措くとして、本書で不覚にも「頭にきた」記述があるので、引用して終わりにしたい。

 

もう半世紀以上も昔の話だが、のちのノーベル賞受賞日本人作家*1が、彼と同じ年頃の防衛大学校生を捉えて、『ぼくは防衛大生をぼくらの世代の若い日本人の一つの弱み、一つの恥辱だと思っている』と、およそ一級の文学者とは考えられないような、相手の人格をも否定する、薄汚い蔑みの言葉を投げつけたことがあった。さらにこの作家は止めの一撃[クー・ド・グラース]のようにして、『そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている』と書き留めたのである。

*1:おそらく故あって名前を伏せたのであろう、この「日本人作家」とは、言うまでもなく「戦後民主主義」を代表する「進歩的文化人」の一人、大江健三郎氏である。こうした左翼活動家の侮辱的な発言と、自らを神の視座に置く偽善的態度は、まさに「日陰者」の扱いをうけてもなお、国益を忘れない鬼っ子である自衛隊とは正反対といえよう

低欲望社会 「大志なき時代」の新・国富論

 

久々に大前御大の著作を読んでみたが、あいかわらずこのオッサンは何も変わっていない(ほめ言葉)と感ずる一冊だった。文中にもあるがこのオッサンは72歳なのである。あと数年したら「後期高齢者」の仲間入りをするはずのオッサンが、修造ばりの熱気で熱く語っているのだ。このオッサンはおそらくワーカホリックが習い性になっていて、マグロのようにずっと泳ぎ続けていないと死んでしまう病気にでもなっているのではないか。結果、異様に若々しいままいつまでも現役で、若手のポストを奪いまくっている(笑)。

 

本書は『週刊ポスト』や『SAPIO』といった小学館系の雑誌の再録+書き下ろしというリサイクル本のようだが、最近、大前節から遠ざかっていたわたしのような読者にとっては、ここ数年の大前オピニオンのダイジェストといった趣で非常にリーズナブルな一冊であった。いくつか重複もあったが、全体として丁寧に編集されている感がある*1

 

相変わらず前置きが迂遠で自分でも駄目なブログの典型例だなという気がするが、それはさておき、本書は大前研一のみた現代日本の課題一覧とその処方箋である。主としてマクロな分析と提言が殆どなので、政治家や大企業経営者ではない一般人にはあまり参考にならないものが多いのかもしれないが、世の中の流れを大づかみするという意味で、ここからミクロな指針を引き出すことも可能だろう。少子高齢化社会保障費用の爆発、介護離職などの人口動態による影響や、アベノミクスによる株高を下支えしている配当金の「相場」による買い支えや、日銀による金融緩和やGPIFのポートフォリオ変更などによるメカニズムは我々庶民にも多少は参考になるかもしれない。

 

それにしても、御大の本は非常に分かりやすい。何がどう分かりやすいのかはテクニカルに分析できないのだが、よく文系学者などがやたらと高尚な文体に拘って迂遠なレトリックを多用している例などを対比してみると、つまりは色んなことを断言している(あまり判断を留保せず言い切っている)ところが「分かりやすい」理由なのではないかと思った。コンサルのプレゼンのごとく、読者は大前コンサルタントの提示するさまざまなプレゼンの是非を判断しなくて済むように作られているから、読むのがラクなのではなかろうか。御大が次から次へと提示する提案を読んでいると、たしかにこれで日本が立ち直りそうな気がしてくるから不思議だ(実際はそんなにうまくいくこともあるまい)。

 

御大はかつて都知事選で青島氏に惨敗を喫し、そのときの記録である『大前研一敗戦記』で、加山雄三氏に面白いことを言われたと聞く。同書は絶版となっているため*2、わたしは残念ながらこれ、未読なのだが、Amazonのレビューによると、加山雄三氏に「いかに理想が高く、その目的が崇高なものでも、人を動かすにはその”心”に触れなくてはならない。」とたしなめられたらしい。

 

これは面白い…というと怒られるかもしれないが、非常に興味深いエピソードではある。頭の回転が速く、さまざまなものが見通せる大前氏に言わせれば、1000万都民の「鈍重さ」は受け入れ難いものであったに違いない。だが、それと同じくらい、都民にとってもこうした「情が感じられない論理の男」はさぞ鬱陶しいものであっただろう。氏は二度と政治の世界には戻ってこないと聞くが、もし御大があの時期に都知事となっていたらどうなっていただろうか? 「弱者切捨て」「人間味がない」ともの凄いバッシングであっさり退場となっていたかもしれない。逆に言えば、氏のような「政治家」を、まだまだこの国は必要としていないということであろう。本書もそうだが、氏がいくら警鐘を鳴らそうとも、なんだかんだ茹で蛙のまま延命できているニッポン経済。タイムリミット、すなわち「ハイパーインフレ」までの余命はまだまだあるのかもしれませんね。

*1:しょうもないことだが、こうしたリサイクル本の初版では、もの凄い初歩的なタイポやあきらかな重複、単行本化に際しての編集などができていない場合がある。やはり大手だけあるということかw

*2:版元はぜひこれを文庫で出して欲しい。御大のファンは絶対買うはずで、そこそこ売れると思うのだが…

TOEICと「英語ができる」

先日、勤め先の好意でTOEIC IPテスト*1を受けることができたのだが、Listening 465 / Reading 425で、トータル890とまずまずの結果であった。一般に、よくあるTOEIC対策本は600/730/860くらいで点数の閾値を設けているので、この数字は(IPテストとはいえ)日本においてはいわゆる「Aクラス」、すなわち「英語ができる」とみなされる水準といえるだろう。

 

ご存知のとおり、TOEICはListeningとReadingのみが出題されるマークシート方式のテストであり、WritingおよびSpeakingの能力は「間接的」にしか計測することができない。したがって、多くの人が指摘しているように、語学の全般的な習熟度を測るには不十分なテストであることは疑いようがない。実際、日常的に英語を運用する経験のない人でAクラスを達成した人の中には、わたしのように実務上の運用能力が殆ど無いという人も多いのではないだろうか。語学というのは「使う」ためにあるのであって、「使う」場が無いのに試験で良い点を取る「だけ」というのは、江戸時代の軍学や、道場剣法のような哀しさを感じる。

 

こうした状況を皮肉ってか、巷間よく耳にする議論として「TOEICなんてできても英語ができるわけではない」というのがある。しかしこの話に限らず、よく言われる「英語ができる」というのは、いったいどういう状態なのだろうか? その前に、そもそもTOEICは「英語ができる」かどうかを計測するテストと言えるのだろうか? 前述のとおり、テストそのものはListeningとReadingが出題されるものであって、当たり前の話だがある一定の「聞き取り能力」と「読み取り能力」を計測するだけのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。出題に含まれる語彙も非常に限定的だ。したがって、TOEICとはそういうものだと思って活用すれば事足りるのだが、なぜか拡大解釈されたり、無闇に攻撃されたりする、じつに切ない試験である。それだけ受験者が多く、活用している企業が多いということなのだろうが…。

 

とはいえ、こうした「TOEIC無用論」が出てくること自体、「TOEICさえやっておけば英語力が測れる」というような雑な理解をする人と、その全く逆で「TOEICの点数と英語の運用能力になんら相関が無い」と考える人がいることを示唆しているのは、あながち穿った見方でもないだろう*2。たしかに言語の運用能力という、計測することが非常に困難なものを評点化しようとすると、さまざまな意味で単純化(というよりもむしろ量子化といえるかもしれない)せざるを得なくなるのは事実だ。たとえば自分の母語を考えてみても、「日本語ができる」というのを正確に定量化しようとすると、ちょっと考えただけでもその難しさに気づく。語彙レベルの定義や、受け答えの正確さなど、果たしてどのような設問を設計すれば運用能力が測れるのだろうか? いわんや英語においておや、である。忙しい現代人にとって、こうしたことを厳密に考える暇はないだろう。となると手っ取り早く「英語ができる」「英語ができない」というラベリングをしてくれるTOEICというのは、「無用論」「万能論」どちらにとっても便利なツールと言えるのではないだろうか。

 

話は少し飛ぶが、さいきん見聞きした言葉に「機能的非識字」というのがある:

 

非識字者は、読み書きが全くできない。これとは対照的に、機能的非識字者は、母語における読み書きの基本的な識字能力は有していながら、さまざまな段階の文法的正確さや文体などが水準に及ばない。つまり、機能的非識字の成人は、印刷物に直面しても、現代社会において機能する行動ができないし、たとえば 履歴書を書く、法的な契約書を理解する、指示を書面から理解する、新聞記事を読む、交通標識を読みとる、辞書を引く、バスの運行スケジュールを理解する、などの基本的な社会行動をとることができない。

機能的非識字 - Wikipedia

 

わたしは英語学習を続けているときに、こうしたことが頭をよぎることがある。わたしは確かに英語の運用能力はそれほど高くないが、少なくとも日本語の運用能力は人並み以上にあると思っている。少なくとも新聞を読んだり新書を読んだりする程度のことではまったく抵抗はないし、どちらかというと活字を追うこと自体が好きなほうである。日本人の平均値に比べると本も読んでいるほうに属すだろう。こうしたことをかんがみると、たとえば同じ日本人が相手でも、会話における語彙の制約や背景知識の有無、基本的な論理的思考能力の差によって意思の疎通が困難であると感じることがたまにある。こうした経験を思い出すと、はたして「日本語ができる」というのはどういう状態なのか、正直よくわからない。

 

母語である日本語ですらそうなのだから、いわんや英語をや、であろう。どういう水準になったら「英語ができる」と判断してよいのか、まったく自信がない。ということで非常に個人的な、まったく一般化できない経験からあえて強引に敷衍すると、TOEICというのはどのくらい英語ができるかを計測する試験ではなくて、どのくらい英語ができないかを測る目安として利用するくらいがちょうど良いのではないか。わたしは学生時代500点~600点くらいだったのが、こつこつ勉強することでTOEICの点数が600点台、700点台、800点台と伸びた*3ので、その経験に照らすと、だいたい800点くらいから上でようやく「非常に限定的だが、まあ相手がnon-nativeとして敬意を払ってくれる前提であれば、必要最低限の意思疎通ができなくもない」水準に達するのではないかと思う。逆に言うと、800点に到達しないのであれば、それはもう「英語ができない=殆どの状況下において現実的なコミュニケーションを行う運用能力が不足している」と考えてよいのではないだろうか。

 

なお英語の運用能力を計測するという観点では、「TOEICなんて意味が無い」というような雑な議論をするまでもなく、CEFRという信頼できる指標がすでに存在しているので、そちらを参照すると良いだろう。また、留学のときに参照するTOEFLやIELTS、ビジネス向けの英語力を検定することができるBULATSなど、用途やレベルに応じてさまざまな種類の検定試験が存在する。「TOEICなんてい意味が無い」というほど英語に興味があるのなら、まずは自分の目的にあった検定試験を探すか、もしくは試験で測ること自体がナンセンスとなるレベル、すなわち母国語と同様の水準まで鍛え上げればよいだろう。その際には以下の本が参考になると思われるので、参考まで掲載する。わたしが書いた過去の書評はこちら

 

 

*1:Instructional Programテスト。過去のテストの使いまわしを団体で受けるテスト

*2:他にも、「東大卒なのに使えない」という類の議論もこの手の話でよく耳にする話だ。東大卒は社会生活や企業生活におけるすべての能力が優れていることを保証するものではないし、観測した東大生がそのほかのすべての東大生を代表しているわけでもない。東大生は学力が概ね一定以上である蓋然性が高いというだけに過ぎず、議論する人が学歴というものに何らかのバイアスを持っている可能性のほうが高いといえる

*3:ちなみに10年以上かかっている

インフルエンザ雑感

昨年に引き続き、今年もまた、インフルエンザに罹患してしまった。月曜日くらいから調子が悪いなと思っていたらその夜に発熱し、翌火曜日の朝から近所の内科医に診てもらったところ、ものの1分くらいでインフルエンザA型と判定された(通常は8分くらいかかるらしい)。すぐに結果が出る近代医療は素晴らしい。その足で薬局に向かい、その場で吸引型の抗ウイルス剤「イナビル」を吸って帰った。しかし、今年のやつは去年の比べてたちが悪いのか、三日たっても熱が下がらず、体中が痛いし倦怠感が凄い。暇に任せてhuluをみているのが良くないのかもしれない*1

 

インフルエンザに二年続けて罹患してしまったことで、わたしの中では「罹患しやすい人」というのが明らかに居るのではないか?という被害妄想が現実となってきた*2。まあ非科学的なのは認めるが、そうでも考えないと、なぜわたしが罹患して、「濃厚接触」しているはずのうちの家族が平気なのか説明がつかない。わたしの家はとても狭く、残念ながら生活空間を病人のために隔離するような空きスペースはない。したがってインフルエンザ保菌者と幼児が同じ部屋で寝ているわけだが、今のところ感染した形跡はない。

 

この2年の経験から、わたしは巷間議論されているインフルエンザの予防に関して、決定的な要素は免疫力の有無、乃至は多寡ではないか?という結論に達した。そう考える根拠は3つある。

 

1つ目は、予防に関する話だ。わたしは昨年の11月ごろにインフルエンザ予防接種を受けている。無論それだけでなく、神経質なほど、うがい、手洗いを励行している。そもそもわたしはやや病的な潔癖症、というよりある種の強迫神経症なので、たとえば電車のつり革やドアノブなども可能な限り触らないように心がけている。外出時はフェイスマスクを常用しており、そういう意味では「予防」という意味でこれほどの優等生は居まい。一方でわたしの妻は面倒臭がって予防接種を受けておらず(さすがに幼児である娘には受けさせたが)、わたしのような潔癖症でもないため、普通の生活を送っている。だが、うつったのはわたしで、彼女は平気だった。これをどう考えればよいのだろうか。

 

2つ目は、ストレスに関する話。よく、ストレスは免疫機能を低下させると聞くが、実際わたしは最近、気づかぬうちにストレスを溜め込んでいるという自覚がある。現代人は誰しもストレスがあると思うが、30数年生きていると、次第に今までと異なるタイプのストレスに見舞われるものだなという思いを新たにする。最近のストレスは、仕事で結果を出さなければならないという比較的分かりやすいストレスも勿論だが、家が狭すぎることで、自分のパーソナルスペースが取れないというタイプのストレスもボディブローのように効いてくる。子供が小さいために、自由時間はすべて育児に費やされ、仮に時間が取れたとしても一日のうち、1時間か2時間が限度だ。勿論妻も同じ状況にあるため、お互いが疲弊しきっているが、妻はこれまで一人で暮らした経験がないので、わたしほど深刻にストレスは感じていないようだ。

 

子育てというのは総力戦であり、終わってからは間違いなく「よかったね」と言える気がするが、やっている最中は文字通り終わりのないマラソンである。休みたいときに休めず、遊びたいときに遊べない。自分の人生を切り売りするといっても過言ではない*3。そういう意味で、ボディブローのようにストレスが積み重なっているのだが、これが原因で免疫機能が大きく低下していたのではないか。

 

3つ目は睡眠だ。上記2にも関連するのだが、うちの家は狭すぎてパーソナルスペースがない。そもそも自分の部屋というような贅沢な代物はないし、唯一の代替空間であるリビングも、子供の寝かしつけに失敗すると単なる騒音空間に成り下がってしまう。子供はうまくいけば9時くらいに寝るときがあるが、その時間を守ろうとすると、寝かしつけで体力と精力を使い果たしてしまう。そのため、諦めて寝かさずに放置しているとあっという間に10時11時になってしまう。その後何かしようとしたところで、1時2時はすぐだ。そうなると削るのは睡眠時間、ということになってしまう。またこのことがさらに現在の境遇に対するストレスに転化してしまい、パーソナルスペースの無さと相俟って、睡眠不足がさらに免疫機能を低下させているのではないだろうか。

 

思い返せば昨年もそうであった。慣れない海外出張から帰ってきて心身ともにつかれきっているとき、インフルエンザを発症した。当時の状況を思い起こすと、酷い時差ぼけに悩まされ、睡眠不足も勿論あったし、乾燥しきったエコノミー席ですし詰めにされていたのが原因ではないだろうか。

 

ということで、わたしが得た教訓は以下のとおりだ:

 

  • 一番大切なのは免疫力の向上。たぶん、よく食べてよく寝て運動することが大事

 

内容の無さでは他に類を見ないと評判のわがクソエントリ、お後がよろしいようで…。

 

 

*1:去年はイナビルの効果はすごかった。吸ったその日のうちに熱が見る見るうちに下がり、翌日はわずかに倦怠感が残るものの十分普通に活動することができた。しかし、今年はイナビル様の神通力も及ばず、三日目も依然として高熱にうなされている

*2:念のためだがわたしは標準医療の否定者ではない。NATROM先生の本も読んでます。このエントリはまあ「ネタ」だと思っていただければ。

*3:だから子供なんてナンセンスだ、こんな世の中で子供を作るなんて馬鹿だという人がたまにいるが、それには与しない。なぜなら、子育てというのは時間的に不可逆な宝物だからだ。もし自分が50歳まで生きられたとして、そのときに「やっぱり子供なんて要らない」と思えるのであれば、子供は要らないだろう。だが、きっと、いつか子供を作っておけばよかった、と思うときが来るはずだ。そのとき、取り返しがつかない唯一のものは子供である。少なくとも、わたしはそう思ったので、妻と相談して子供を授かった。それ自体は全く後悔していないし、労せずして子供が授かったのもラッキーだと思っている。ただ、それは必ずしも子育てが常に楽しいということを意味しない。多くの育児ブログがそうであるように、子育てというのは非常にアンビバレントなものである。