One of 泡沫ブログ

世の中にいくつもある泡沫ブログの一です。泡沫らしく好き勝手書いて、万が一炎上したら身を潜めようと思います。※一部のリンクはアフィリエイトです

アイ・アム・レジェンド

 

ウィル・スミス主演で映画化された『アイ・アム・レジェンド』の原作となった本。映画化に伴い新訳で装いも新たに発行されたものだという。以降、作品のネタバレがありますので、ネタバレOKの方はどうぞ。

 

ウィル・スミス版をレンタルで借りてみたところ、「衝撃の別エンディング版」というボーナス・トラックがあった。「劇場公開版」と比べてみると次のようになる:

 

<劇場公開版>

ダーク・シーカーに後をつけられ、アジトを襲われたネヴィル達はに地下の研究室に向かう。そこで、数日前に捕らえた女性型のダーク・シーカーに打った血清が効いているのを目撃する。ワクチンがついに見つかったのだ。ネヴィルはダーク・シーカー達に「ワクチンが見つかった、人間に戻すことができる」と説得するが、かれらは耳を傾けず、シェルターを破壊しようとする。もう時間がない。追い詰められたネヴィルは、アナとイーサンに完成したワクチンを託し、二人を守るためにダーク・シーカーの群れに自爆特攻して死んでしまう。何とか助かったアナとイーサンは、ネヴィルに託されたワクチンを手に、生き残った「人類」が立て篭もる街へたどり着くところで映画は終わる。人類を救ったネヴィルは、文字通り「伝説」となった…。

 

<衝撃の別エンディング版>

ダーク・シーカーにアジトを襲撃されるところまでは<劇場公開版>と同じだが、ネヴィルがダーク・シーカー達に説得するところからの展開が大きく違っている。ネヴィルはダーク・シーカー達に「ワクチンが見つかった、人間に戻すことができる」と説得するが、そのとき、唐突に天啓を得る。女性型のダーク・シーカーの首筋にみえる蝶のタトゥー、あれは、以前捜索した家でみたマークではないか? このリーダ格と思しきダーク・シーカーは、あの家の主人で、この女性型ダーク・シーカーは、その妻なのではないか? そう考えていくと、かれの行動は、妻を助けようとしているだけなのではないか?

 

ネヴィルは突然、手にした銃を置き、アナにシェルターのガラス戸を開けるように指示する。驚いたアナは一瞬躊躇うが、指示通りガラス戸を開け、ネヴィルがダーク・シーカー達の群れの中に女性型ダーク・シーカーを載せた担架を移動させたのを見届けると、すぐさま扉を閉める。不思議なことに、ダーク・シーカー達はネヴィルを襲うことはなく、行動を見守っているようだ。ネヴィルは引き出しから取り出した注射を女性型ダーク・シーカーに打つと、彼女は見る見るうちに「人間」の姿からもとのダーク・シーカーの姿に戻っていく。リーダ格のダーク・シーカーはそれをみて喜び、「復活」した女性型ダーク・シーカーを抱き寄せて帰っていく。

 

「I'm sorry」ネヴィルは思わずつぶやく。かれらは恐るべき怪物ではあるが、理性を失ったわけではなく、かれらはかれらの行動原理に沿って、生きていただけだったのだ。かれらにとって、ロバート・ネヴィルこそが、神出鬼没の恐怖の対象であり、ネヴィルこそが、伝説の存在だったのだ。

 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

原作の小説では、ダーク・シーカーは「吸血鬼」となっており、外見上は人間に近い状態のようであり、ダーク・シーカーのような驚異的な身体能力もないようだ。映画版と同じく、ネヴィルは吸血鬼たちを次々を「出血死」させ、色々と研究をしてかれらの生態を探りながら、他の生存者を探して回るわけだが、エンディングは次のようになっている。ネヴィルは人間のフリをした女性吸血鬼ルースに騙され、不意をつかれて捕らえられてしまう。そこで、ネヴィルは、自分こそがかれらにとって忌むべき存在であることを悟るわけだ。

 

 まるで群集の頭上に厚い毛布をかけたように、急速に静寂が広がっていく。彼らはみんな白い顔でネヴィルを見上げていた。彼も群集を見返した。ふと思った。俺はもはや特異な存在なのか、と。”普通”とは多数派を表す概念で、”標準”もまた多数派の意味であり、一人だけ生き残った者を示すわけではないのだ。

 それと群衆の顔に浮かぶ――驚愕、不安、身をすくめるような恐怖――とがあいまって、彼らがネヴィルを恐れていることを実感した。彼らにとって、ネヴィルはかつて目にしたことのない忌まわしさの元凶であり、ともに生きていくことになった疫病をしのぐ諸悪の根源でもあった。ネヴィルはかれらの愛しい仲間を出血死させていくことでのみ存在を知られる、見えない亡霊のようなものだったのだ。彼らが自分を恐れてはいても、憎んでいるわけではないこともわかった。(中略)

 ロバート・ネヴィルは新しい人類を見渡した。俺は彼らとは相容れない存在だ。吸血鬼どもと同様に、彼もまた”呪われしもの”であり、破壊すべき不吉な存在なのだ。不意にそれを悟ると、苦痛にさいなまれながらも気が楽になった。(中略)

 この俺が伝説の存在だったのだ。

 

わたしは、ウィル・スミス版の映画、しかも劇場公開版だけ観たため、そもそもの原作にあった一番重要なテーマであるこの「価値観の逆転」を知らないまま、『バイオハザード』のような映画だと思っていた。おそらく、多くの人がそうではないかと思う。これは実に惜しいが、かといってこの点を始めから強調しすぎると、一番のオチを壮大にネタバレすることにもなり、面白さを損ねてしまうことにもなりかねない。

 

しかし、何ゆえこのテーマが変更されてしまったのだろうか。一説によれば、もともとはウィル・スミス版の映画も「別エンディング版」つまり原作と同じテーマが放映されるはずだったのだが、直前になって差し替えられたという。これにはイラク戦争などの影響があるようだが、あまり踏み込みたくない内容なのでここでは論評を控える。興味のある向きはめいめいでググってみられたい。