One of 泡沫ブログ

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楽しいとかワクワクするとかを自分に言い聞かせる

さいきんネットでにぎやかなテーマは、新しい働き方だとか、不況でも食っていける方法だとか、雇われない方法だとか、その手のムーブメントだと思う。こういう話は次々と「笛を吹く人」が現れては消え、そのたびにワッと盛り上がって、気がつくと下火になって…という感じで、なんというか、これから大いなる「撤退戦」が始まる先進国いや衰退国を生きるうえで、それを乗り切るための「指針」や「ロールモデル」みたいなものを見つけられず、救いを求めてふらふらと惑う、そんな雰囲気を感じる。

 

わたし自身、2008年くらいからそのムーブメントに一度乗ってしまい、手痛い失敗をして今に至っているので、人のことはとやかく言えないのだが、落ち着いた今となっては、「海外に行こう」とか「自分らしく生きよう」とか「ワクワクする生き方を」なんていう類の発言は、その殆どがバカだなぁと思う。本当に自分が充実していて、仕事が楽しければそれでいいし、それを人に押し付けるものでもないし、わざわざ人に言うものでもないだろう。「僕はこんなに日々充実していて楽しいですよ」とわざわざ人に言うのは、なにか不安があるのではないか? とか、思ってしまう。これは日本的な考え方なのだろうか。

 

もっとも、会社の社長などがメンバを鼓舞するためにあえてわかり易く前向きな発言をしてみたりとか、ビジネス書や本業の宣伝をするためにあえてポジショントークしたりするのは、悪くないと思う。こういうのは、ビジネスや組織運営のために必要なことだから、別に悪い気はしない(そうやってやる気を搾取しつつ労基法を守らない経営者はクソだが)。むしろ読んでいて厭な気持ちになるのは、フリーランスのように一人でやっているのに、わざわざ「ワクワクする」とか「充実する」とか、もやっとした情況で何となく連発する人だ。内容があるならまだしも、単に「楽しい」とかだけ、気分を連発されるとムカムカしてくる。厭なら読まなきゃいいんだろうが、たまに目に入ってくるのはいかんともしがたい。まあ、不快になる理由もわかっていて、要するに、自分を見ているようで厭な気持ちになるだけなんだけど。

 

そういえば昨日のエントリで言及した森博嗣が、同書でこんなこともいっていた:

 

僕の教え子で優秀な学生だったけれど、会社に就職をしなかった奴がいる。彼は今、北海道で一人で牧場を経営している。結婚もしていないし、子供もいない。一人暮らしだそうだ。学生のときからバイクが大好きで、今でもバイクを何台も持っている。毎日それを乗り回しているという。「どうして、牧場なんだ?」と尋ねると、「いや、たまたまですよ」と答える。べつにその仕事が面白いとか、やりがいがあるという話はしない。ただ、会ったときに「毎日、どんなことをしているの?」と無理に聞き出せば、とにかくバイクの話になる。それを語る彼を見ていると、「ああ、この人は人生の楽しさを知っているな」とわかるのだ。男も四十代になると、だいたい顔を見てそれがわかる。話をしたら、たちまち判明する。

 

実も蓋もない話はさらに続く。

 

 こういう人は、そもそも、自分からはそんなに話をしたがらない。ただ、楽しそうにしているし、機嫌が良さそうだから、「なにか、面白いことでもあったの?」とこちらから聞きたくなる。

 そうでない人というのは、子供の写真を見せたり、仕事の話をしたり、買おうとしているマンションとか、旅行にいったときの話とか、そういうことを自分から言いたがる。僕は、いつも聞き役だ。(中略)本当に楽しいものは、人に話す必要なんてないのだ。

 人から「いいねぇ」と言ってもらう必要がないからだ。楽しさが、自分でよくわかるし、ちょっと思い浮かべるだけで、もう顔が笑ってしまうほど幸せなのだ。これが「楽しさ」というもの、「やりがい」というものだろう。(中略)

 最も重要なことは、人知れず、こっそりと自分で始めることである。人に自慢できたり、周りから褒められたりするものではない。自分のためにするものなのだから。

 

結婚しているとか、子供がいるとか、資産があるとか、大きな家に住んでいるとか、そういうことにとらわれるのは仕方がないことかもしれない。「そうは言っても、食うや食わずの生活をしていたら荒むだろう」とか、容易に反論が予想される。霞を食って生きるわけにはいかないし、こちらが貧しい生活を送っているところに、隣人が優雅な生活をしていれば羨ましいと思うのが人情だ。だが、本質的な幸せというのは、キレイごとではなくて、本当にそういう考え方の延長線上にはないのだろう。少なくとも、他人の目を、気にしているという状態そのものが、すでに幸せとは遠い気がする。陳腐な物言いだが、自分の人生をどう捉えるかは、ひとえに自分にかかっているということなのだろう。