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予想通りに不合理

 

結構前に出版されて話題になった「行動経済学」の入門書だが、文庫版(新版?)で見つけたので買って読んでみた。もっと堅い内容だと思っていたのだが、読んでみると大変読みやすい一般向けの本のようである。翻訳が素晴らしいせいもあるだろう。さらさらと読めてストレスなく読み終えることができる。巻末の引用文献を見ると、きちんとしたアカデミックな文脈で理解するのは難しそうだったが、われわれのようにビジネスに援用しようとする不届き者にはちょうどいい内容だろう。

 

これはビジネス書ではないのだろうが、下手なビジネス書より実務に役立つのではなかろうか。マーケティングの実務化には経験的にも学究的にも既知の内容なのかもしれないが、製品のプライシングやプロモーションなどで実務に応用できそうな内容が盛りだくさんで大変ためになった。考えようによっては、これは人間心理のメタな領域に踏み込んだやや危険な書といえるかもしれない。それは、これを読んだ素人がニワカマーケターとなってビジネスで大失敗することも含めて大変危険な本である(笑)。

 

…と、普段ならここで「予想通りに不合理」な事例を本書からいくつか引用してお茶を濁すところだが、今回は少し趣向を変えて、本を読んで思いついたことをふたつほど述べてみたい。

 

ひとつは、本書第9章「扉をあけておく」、すなわち、選択の余地を残しておきたがる性向についての話である。実験の結果によると、選択肢が複数あると、人間はその選択肢を残しておこうとするらしい。しかし、選択の余地を残す、もっと極端に言えば、態度を保留し続けることは、その間に大きな機会損失をしてしまっている可能性もある。だがそれは永遠に知りえないことだ。どちらの選択肢がよかったのかは誰にもわからない。時間は戻せないのだから。

 

極端な例を挙げれば、年頃の女性が「まだ自分の時間を大事にしたいから」と妊娠の機会を保留にしてしまうような態度が相当するだろう。妊娠してしまうと、子育てにリソースを取られてしまい、今の自由な生活を失ってしまう。いずれ妊娠すること自体は可能なわけで、とりあえず現状として「保留」することは、すなわち両方の選択肢を残し続けているということに他ならない。こうして、人はずるずると「扉を開けたまま」にしてしまうのだが、あるとき、一方の扉がいきなり閉じられてしまうことに気付くのだ。一方で、妊娠したことによる未来が、自分にとって望ましくないことだってあるだろう。結局のところ、未来は誰にもわからないのだから、色々予測を立てつつも、最終的にはエイヤで決めてしまうしかないのであろう。

 

わたしは以前にポジションの話を書いたことがあるが、これと同じ仕組みではないだろうか。時間軸が一方にしか進まない以上、現時点ではどういう立場を取ろうと、それは必ず一つのポジションを取っているといえる。言うまでもなく、保留というのもポジションのひとつだ。時間が有限かつ一方通行であることを忘れてしまうと、保留という選択の恐ろしさに気付かなくなってしまう。

 

何故このような話を長々と続けたかというと、個人的な話なのだが、わたしは大学生のときに「可能性の罠」という「真理」に気付いたのだが、このコンセプトが「扉の話」とそっくりだったからである。この造語はもちろんケインズの「流動性の罠」から拝借したものだが、言葉自体はわたしのオリジナル(のつもり)である。若い人に特に顕著な傾向であるが、自分にいくつもの選択肢があると思っていると、そのせいで何か一つを選び、そのほかの選択肢を諦めてしまうことができなくなってしまう、という性向のことを述べたものだ。わたしはこの「可能性の罠」という着想を得たときに、多少大げさにいうと「天啓を受けた」ような気持ちになった。何かが永遠に選択可能であるということはないのだから、主体的に選択行為を行っていこう、という気になったのはこの個人的な体験によるところが大きい。

 

しかし、ちょっと考えればわかることだが、凡庸な大学生が思いつくようなことは、既に偉い人はとっくに考え尽くしているものなのだろう。本書の275ページに書いてある通り、エーリッヒ・フロムが1941年に「近代民主主義において、人々は機会がないことではなく、めまいがするほど機械がありあまっていることに悩まされている」と分析されているようで、わたしにさかのぼること60年である(わたしが「可能性の罠」の着想を得たのは2001年頃)。…ということで壮大な自分語りであったというオチで、ひとつめの話は終わりである。

 

もうひとつは、第2章「需要と供給の誤謬」に書いてある価格のアンカリングについてである。これは簡単に言うとあるプライシングが基準になって、似たようなものの「値ごろ感」が人々に共有されると言うものである。スターバックスのコーヒーはドトールやベローチェの感覚からするとお高いものだが、似たようなつくり(シアトル風というのか?)のタリーズのコーヒーもまあ同じくらいの価格で受け入れられている。こういうのが所謂価格のアンカリングというやつである。

 

ここでわたしは素人考えをするのだが、たとえばクルマのように比較的ハードウェアがベースになっている消費財は、固定費が原価として「想像しやすい」ため、かかった原価にマージンを乗っけて出てきた価格に納得できる傾向にあると思う。勿論高級車になればなるほど利鞘すなわち粗利が大きくなるのであろうが、大衆車であってもだいたい150万とか200万くらいはかかるというのは何となく納得できるものである。(とはいえ、家電やデジカメのように、コモディティの波に飲まれているものは既にそうなっていないが…)

 

しかし、一方で外食のように明らかに原価が低い商材や、ソフトウェアのように原価が見えにくいものには、価格の納得性というのがいまひとつわかりにくいように思う。そのため、こういう業界は価格というのが一つのアンカーに必要以上に引きずられてしまうように思う。わかり易い例が牛丼であろう。色々値下げ合戦しているうちに、ほぼ280円という価格が業界標準のアンカーになってしまい、チキンレースをしているうちに価格が変えられなくなってしまった。デフレの象徴のようなものであろう。勿論、スターバックスのように「500円くらいの価格をアンカーにするちょっと高級な牛丼屋」というイノベーションがあるのかもしれないが…。

 

また、わたしが末席を汚す受託業界も、悪名高き「人月単価」という名で価格がアンカリングされており、詳細は言えないが「PG1人月○万円、SE1人月○万円、コンサル1人月○万円」という相場は確実に存在する。今はこれが下落傾向にありコンサル会社やSIerが皆苦しんでいるわけだ。

 

この流れはパッケージソフトウェア系も同様で、エンプラ系の場合、サーバライセンス○○円ユーザライセンス○○円とやっていた商売が、所謂「クラウドコンピューティング」によってアンカーをドンドン下げられてしまっているわけである。売る側の立場からすれば、ソフトウェアもクルマなどと同じで原価というのがあるから当然価格に転嫁しないとやっていけないわけだが(そして、それは必ずしもボッタクリというわけではなく、高度なプロダクト管理ができている製品にはエンタープライズ用途に耐えるだけの意味がそれなりにあるのだが)、ユーザは細かいインテグレーションの差異まで見ない(見えない)ので、機能だけで見ると価格のアンカリングが下方修正されているわけである。こうして、業界全体でデフレの傾向が強まり、市場全体としてみればシュリンクしていっているように思える。

 

ということで、ある種の「カルテル」なのだが、業界の慣行を価格で破壊するというのは、巡り巡って自分の首を絞めるだけだからやめようぜ、という話である。これは別に自分の業界だからそういっているわけではなく、象徴的に言えば「牛丼280円とか誰も幸せにせんだろ」ということが言いたいわけだ。何の話だっけ…。ああそうだ、『予想通りに不合理』の話だったのに、いつの間に自分語りになってしまったんだろうw