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トコノクボ

 

 

激しく推奨する一冊。一冊というか、Kindleなので一本(?)というべきか。

 

著者は法廷画(ワイドショウとかでよくある裁判中の風景を描写するあれ)やキャラクターデザインなどを中心に活躍されているというフリーランスのイラストレータである。(著者サイト:トコノクボ

 

あまりネタばれをしてもよくないのだろうが、感想を書く以上、少々内容に触れざるを得ないので未読の方は少し用心して欲しい。(と、言ってもブログで全部読めるが)

 

本書の読後感はさっぱり心地よく、月並みな表現で恐縮だが、殺伐とした現代の世相の中でほっと一息つける、一服の清涼剤といえる。ここのところネットウォッチをしていると、やれノマドだ、グローバルだ、経済が破綻する、というような殺伐としたネタだらけで、少々疲れていたこともあって(そんなものばかり読むわたしが悪いのだが)、わたしは本作にいたく感銘を受けた。なぜこんなに感銘を受けたのだろうか。

 

その理由は、おそらく著者が田舎モノであるにもかかわらず(失礼)、成功したイラストレータとして充実した作家人生を送られているからであろう。

 

比べるのも恐縮だが、わたしも著者と同じようにド田舎の産で、かつて、郷里で上京を夢見ていた頃、毎日下手な絵を描いては、漫画家になりたい、いや、上京したら俺は漫画家になろう、とぼんやり考えていた。ま、わたしの場合は、実際の行動が伴っていないただの妄想だったわけだが…。話が逸れたが、わたしは同じ田舎モノとはいえ、著者の家庭環境と大きく異なっていたせいか、プロになるためには上京するしかないと固く信じていた。今考えると何の根拠があるのかわからないが、漫画やイラストを描く人は、とにかく東京の多摩地区(調布や三鷹、武蔵野あたり)に住んで、出版社に持ち込みをしないとだめだと考えていた。

 

わたしの場合、プロになるための具体的な活動を何もしていないので持ち込みもクソもないのだが、とにかく田舎に居てはプロになれないという信仰があったのだ。おそらくこれは多くの田舎モノに共通する心理だろう。高校を卒業したら、大学でデビューだ、というようなストーリである。とはいえ当時としては致し方ない事情もある。大学進学はともかく、少なくともある程度の都市に出ないと画材すら手に入りにくい時代だったのだ。地方に居てはコミケに行くなど夢物語であろう。当時はアマゾンのような便利な仕組みもないし、今ほど萌えとかオタクの市民権もなかったため、Gペンやスクリーントーンを買うにもアニメイトの通販くらいしか手段がなかったと思う。

 

まあわたしのしょうもない述懐はさて措き、とにかく田舎にいてはプロになれないという信仰があったわけである。ところが著者は後々になって結果的に上京するとはいえ、イラストレータとしての基礎は田舎時代に、パソコンとホームページだけでほぼ築き上げているのだ。

 

わたし、この点に強く感銘を受けたのである。

 

作中に説明があるとおり、著者の家庭環境はお世辞にも恵まれているとはいえない。そのせいで、著者はネット弁慶のわたしの目から見るとずいぶんと色んなことに関して世間知らずで、相当の「情弱」に見える。正直申し上げて、読みながらなぜこんなにモノを知らないのだろうかと思ってしまった。もしかしたらこのような情報格差は、都会と地方、あるいは大学に進学したか否か、というところに起因するものなのかもしれない*1

 

誤解をおそれずに言えば、著者はダウンサイドまみれのスタートラインから、結果としてイラストレータとして確固たる地位を確立されているのである。すばらしいことなのだが、わたしのような小賢しい人間は理由を考えずには居られないのである。なぜ、著者は、イラストレータという、非常に門戸の狭い業界において成功できたのであろうか?

 

 

客観的な視点から見ると、著者のこれまでの活動は結果的に優れたマーケティングであったということだろう。前任者の逝去に伴い空白となったポジションにタイミングよく入り込めたのも偶然ではなく、それまでに積み重ねてきた地道な活動による信用があったからに他ならない。仕事をやる上で必要な営業活動、信用を積み重ねること、需要者のニーズに即してタイムリーにアウトプットを出すこと、プロフェッショナルとしては当然のことなのかもしれないが、著者はそれらがすべてできていたということである。著者の度量の広さもあるのだろうが、自分から自分の市場を狭めるというような無益なことはしていないことも伺える。自分のやりたいことやスタイルに固執して営業の幅を狭めてしまうようなことは、『トコノクボ』を読む限り、殆どないように見える。

 

このように、外側をなぞっていくと、「自らのバリューが最適化されるよう、市場に対して適切にアプローチし、競合と差異化していった」というような話にあるわけであるが、驚くべきことに(?)、著者の場合こうした「ビジネスプラン」だとか「キャリアプラン」というようなことは、意識してやられていたわけではないのである。

 

わたしは最近ネットウォッチばかりをしているせいか、(できるできないはさておき)最短ルートはなにか、どういう市場だとどういうニーズがあるか、などといった外側をなぞる癖がついてしまって、やる前から「これは陳腐だ」「これはレッドオーシャンだから無駄だ」「この企業のマーケはへたくそ」というような、小賢しいことを考える知恵がついてしまった。

 

だが、本書を読んで、小賢しいことを考える暇があったら、まず無心に目の前のことに取り組み、いきなりショートカットしようとせずにまずやれることを丁寧に真摯にやらなければ、と改めて感じた次第である。どうにも、こういう青臭いことを考えるのが厭で、斜に構える癖がつきすぎていたように思う。

 

著者はこれまでの半生を振り返って、すべての点はつながっていて、一つの線になって今につながっている、と述懐されている。もちろんネット弁慶のわたしは、こういう話を読むと反射的にスティーブ・ジョブスの有名なスタンフォードのスピーチを思い出す。

 

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. 

 

'You've got to find what you love,' Jobs says

 

ジョブスが言うくらいだから、こういう話にカタルシスを感じるというのは、もしかしたら日本人だけではなく、ユニバーサルな感覚なのかもしれない。

 

まあ、ただの生存バイアスに過ぎないんですけどね。

*1:誤解のないように申し添えておくと、そもそも高等教育が受けられるか否かというのは、本人の能力もさておきながら、家庭環境、もっというと家庭の経済環境に負うところが大きいのではないかと思う。わたし自身、決して裕福ではなく、どちらかというと貧しい家庭に育ったが、著者の家庭のように荒んではいなかった。著者がもし、わたしの家庭に生まれたとしたら、おそらく大阪の美大や工芸大などに進学し、学生生活を通して多くの情報を得ていたであろう。一方、わたしが著者の立場だとして、果たして著者のように真摯な性格に育つかどうか、はなはだ疑問である