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マルチリンガルの外国語学習法

 

「英語学習法」ではない、「外国語学習法」である。著者はなんと専門の言語学者ではなく、ふつうの(!)勤め人らしいが、その傍らで複数の言語に親しみ、イランやトルコ文学を翻訳する、翻訳家兼研究者のような活動をされているという。しかし、そのマスターした語学の数が凄い。「はじめに」に、著者がこれまで「かかわってきた」言語が羅列されているので、ざっと紹介してみよう。次のとおりである:

 

・スペイン(カスティーリャ)語

ポルトガル語

カタルーニャ語

・フランス語

・イタリア語

ラテン語

ルーマニア語

・ペルシア語

トルコ語

・正則アラビア語

・聖書ヘブライ語

・ドイツ語

アゼルバイジャン

・パシュトー語

ウルドゥー語

ヒンディー語

ウイグル

ウズベク

・ロシア語

・英語

 

このうち太字にしたものは、「読む」「書く」「話す」の三要素を「一応バランスのとれた状態でこなせる」というらしいから、これは本物のPolyglotである*1。もちろん母語(著者の場合、日本語)が加わるために、操れる言語は10になるという計算である。どういう脳みそをしているのであろうか。

 

さて本書はいわゆるPolyglotものの勉強法であるが、わたしが読んだ限り、あまり一般の役に立つような、いわゆるハウツーの勉強法は殆どかかれていなかった。*2。Polyglot系の本に多いが、むしろこれは、多言語話者(というより、翻訳家か?)がどのように言語というのを捉えているのか? について文字通り興味本位で読む、ある種の「物語」と割り切ったほうがいいだろう。というのも、おそらくこのレベルで語学を志す人というのは、もはや存在自体が珍しいため、そもそも万人に向けた勉強法などが存在するはずもないからだ。言い方は悪いが、こんな新書一冊読んだ程度でPolyglotになれるなどと考えるほうがどうかしている。

 

著者はもともと帰国子女だそうだが、幼少期に明確な母語がなかったために、感情をうまく表現することができず、不安定な時期を過ごしたという。これはバイリンガル系の本を読んでいるとよく読む話で、たしかに自分の考えていることを言語化できないというのは、自己を確立する上でも大きな障害であるようにも思う。少し趣旨が異なるかもしれないが、同じPolyglot系の本で『語学で身を立てる』という良書があるが、こちらにも次のような記述があった: 

 

外国語がどのくらい習得できるかは、日本語がどれだけできるかにかかっている、といっても過言ではありません。アメリカからの帰国子女の母親で「うちの子は英語には困らないのですが、漢字が書けなくて……、英語で話したほうが楽だなんていうんです」と嬉しそうにこぼす人がいましたが、このような子どもは日本で語学を仕事にすることはできません。実際、その高校生は、発音は素晴らしくよいのですが、その話しぶりはアメリカ人の小学生が話す英語そのまま、文章を書かせると子どもの日記みたいな調子で、綴りも間違いだらけというありさまでした。(後略)

 

 

この高校生のような状態であれば、おそらく自分の考えていることを正確に伝えるということは母語でも難しいだろう。というより、日本語が不自由なだけでなく、英語ですら満足に運用できないわけだから、自分の母語がどちらなのかもわからない状態なのかもしれない。わたしはこういう状態に置かれたことがないので想像でしかないが、恐らく感情的に非常に不安定な状態になるのではないだろうか。

 

本書の著者である石井氏も、「小学校高学年になっても、全然年齢相応の言語による自己表現力がなく、まわりとの協調ができない。今風に言えば、わけもなくすぐキレるというやつである。まともな言葉が通じない、粗暴で極度に情緒不安定、最低の問題児であった」と述懐している。現在、海外一世として活躍されている方のブログなどを拝見しても、子女の母語選択にはかなり気を遣っていることが伺える。バイリンガルというのは放っておけばできるものでもないらしい。

 

話がまた逸れたような気がするが、本書の妙味は、ふつうの語学屋ならとても到達できなさそうな領域から語学について語っているところにあるだろう。とくに面白いのは英語に対する概観である。Polyglot的な観点からみた英語という言語はどうやら特殊な言語であるらしく、先に紹介した『語学で身を立てる』の猪浦氏も、他の主たる西洋言語に比べて著しく語形変化が少ない言語だと書かれている。日本人にしてみれば英語の語形変化は十分多いような気がするわけだが、仏語や独語などから見れば圧倒的に少ないのは事実である。そのため、文法上、非常に多彩な解釈が可能になってしまうという言語上の問題が発生してしまうらしい*3。また、やや複雑な文法上の概念として「接続法」、英文法でいうところの「仮定法」に関する例が紹介されている。これは、英語がいかに他の印欧語に比べて接続法が退化しているか、という説明をされているわけだが、残念ながらわたしに語学的な素養がないのでそのエッセンスをうまく伝えることができない。本書をぜひ読まれたい箇所である。(面白いよ)

 

以上どこまで本書の魅力をお伝えできたのか甚だ疑問であるが、いい年こいて「外国語がペラペラになりたい」などという、言わば中二病がなかなか治らないオッサンが読んだら、「やっぱり英語くらいは何とかできるようになりたい…」という気持ちにはなったので、そういう効用は間違いなくあるだろう。

*1:本文中にもあるが、ラテン語は現在では死語であり、日常的に使用する人は殆どいないであろう

*2:「はじめに」にちゃんと断りがある

*3:そのため、英語は慣用句的な用法のバリエーションが多くなり、システマティックに理解することが難しく、要するに理屈じゃない場合が多い…というようなことを何かで読んだが、出典を忘れてしまった