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【映画】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(ネタバレ)

駄作と話題の『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を見物に行ったところ、予想をはるかに超える角度でクソ映画だったので、これは書くしかあるまいと思って筆を執ってみた。それほどこの作品は、観た者に行動を起こさせる不思議なチカラがあるw

 

まず先に全体の評価だが、とにかくこれは令和最初のキングオブ駄作と言ってよいと思う。語彙力が足りないので端的に「駄作」というしかない。何から何までダメで褒めるところがほぼないので、逆に新鮮であった。今の世の中、金主からカネを集めるのも難しいと思うのだが、そんな中でここまでヤバいレベルの作品が成立できるのか! という新鮮な驚きすらあった。ではどの辺がダメなのか? 具体的に見ていこう。

 

ストーリー後半のちゃぶ台返しが致命的にド下手

多くの人が批判しているのもこの点だろう。一応説明(ネタバレ)すると、クライマックスにいきなり画面全体がバグって、コンピューターウイルスを名乗るキャラクターが現れる。そしてこのコンピュータウイルスは、主人公に対して「これはただのゲームだ」「大人になれ」「現実に帰れ」とやり始めるのである。どうやらこの世界は、主人公がゲームセンターのようなところでプレイしていたVR的なゲームにすぎず、そうした「現実逃避」に対して「大人になれ」というメッセージを伝えたかったようだ。

 

明らかに創作者の主題はここにあったと思うが、これが致命的にドヘタクソなのである。おそらく熱心なファンや、それほど深く考えずに(あたりまえだが、エンターテイメントというのはそういうものだ)作品に接した人は唖然としたのではないか。それはそのはず、カネを払ってエンタメを観に来たのに、いきなり「これはただの虚構だから、現実に帰れ」と言われたら、「はぁ?」という感情になるのは自然なことであろう。それを言い出したら映像作家など存在そのものが虚無であると思うのだが、そういう再帰的な問いはなかったのだろうか。むしろこうした自己言及なくして、何故このような(安易な)メタ描写を主題に据えたのであろうか?

 

わたし自身はこの虚無に対しては特段の感情を持たなかった。確かにぎょっとしたが、それ自体はまああまり感情を動かされなかった。むしろ感情的にどうしても捨て置けないのは、「どうせこのネタをやるならもうちょっとうまくやれ」、そして「別に大して真新しいネタでもないのに、ドラクエみたいなメジャータイトル使ってなぜこの陳腐な主題をやろうと思ったのか?」という点に尽きる*1

 

もう少し掘り下げてみよう。この手のメタ演出は通常、かなり高度な技術が要求されるので、安易にやってしまうとエンターテイメントとして成立せず、せいぜいパロディーくらいにしかならない。例えば先日も『トネガワ』や『一日外出録ハンチョウ』における自己言及的な作風に対してコメントしたが、実際、こういう「お約束」は、演出の手法と元ネタが飽和した近年のエンターテイメントではむしろ「あるあるネタ」になってしまっていて、消費者はこのくらいのちゃぶ台返しではいちいち驚いたりしないし、うまくやれば視聴者の間に一種の共犯意識が生まれ、エンターテイメントとしても成立させられ得ただろう*2

 

なぜこのメタ描写、もう少しわかりやすく言うと自分の世界観を自らぶち壊す「夢オチ」が禁じ手として多くの作家に戒められていたのもわかるであろう。これをやってしまうと、あらゆる意味での作品としての信頼を一瞬で失う。エンターテイメントというのはメディアを問わず、ある種のプロレスみたいなものであって、虚構をいかに作り手と受け手の間で試すか、という技巧なのであって、その構図自体に作者自身がツッコミを入れるというのは自殺行為でしかない。はっきり言って、現実と虚構の区別がついていないのは、かつてあらゆるテレビゲームを「ファミコン」と言って忌み嫌い、ゲーム脳などという謎ワードを生み出した団塊世代だけなのではないか(暴言)。きょうび、この令和の時代にゲーム内容と現実を相対化できていない(ゲームやアニメの世界を現実の世界と混同してしまう)ような人はほとんどいないであろう。特にドラクエの場合、『4コマ劇場』などをはじめ、当時から世界観に対するセルフツッコミはふつうになされており、全然珍しくもなんともなかった。

 

中にはもちろん、この構図そのものを主題にした作品が成立することもある。たとえば1997年の劇場版エヴァンゲリオンのように、意図的に作家側が視聴者に冷や水を浴びせる試みがなされた例はあろう。当時かなり賛否両論が巻き起こったと記憶しているのだが、あれは文字通り「賛否両論」であり、エヴァンゲリオンに心酔していた多くのオタが発狂したのも、いわばイラン革命のときにホメイニ師のところにいきなりアラーが現れて「アラーなどいないよ」と言うに等しいことをやられたからだろう*3。だから劇場版エヴァは作品として面白かったのだが、今回忘れてはいけないのは、これは90年代のエヴァではなく、ドラクエなのである。これほどまでに分かりやすい例をとって、なぜプロの作家がこういうベッタベタなメタ叙述をやろうと思ったのか? 意図が分からなさ過ぎて不気味さしかのこらない。そんな気持ち悪さがいっぱいの怪作であった。

 

声優が下手

またこれは別の話だが、とにかく声優が軒並み下手くそすぎて、それだけでも作品に集中できない。なぜプロの声優を起用しないのであろうか。この辺は邦画アニメの宿命ともいえよう。

 

本編が雑

これも主題である「ゲームだから」という理由付けができる、という擁護もできるのかもしれない。つまり「ゲームだから、自分で勝手に懐古厨仕様に設計してるから面白くなくなっているんだよ」というメタ描写ということなのだが、このエクスキューズが限りなくサブすぎる。面白くないのをあらかじめ防御して、主題に含めるという、二重のサブさである*4

 

 

まあ一介のドラクエファンとしては、呪文の扱いが変だとか、魔物使いの解釈とかのほうがムカつくわけだが、これはあまり評論ぽく無いので今回は措いた。ということで、いろいろけなしたが、令和最初の怪作であることは間違いない。怖いものみたさで観る価値はあるだろう。往年のドラクエファンは、やめておいたほうが良いかもしれないw

*1:メタな視点でエンタメがやりたいのなら、初めから倒叙にすればよいだけだ。

*2:ただし作品の価値そのものを毀損する行為であることには変わりない。創作者自ら二次創作ネタをやるようなものだ。

*3:このよくわからないたとえは山本七平のパクリ。

*4:「クエスト」みたいなセリフ回しも、伏線として非常に雑である。