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どんどん莫迦になる

子供が産まれてから、まとまった時間、ものを考えたり、文章を書いたり、色々な意味で集中する作業ができなくなった。起きている時間の殆どにノイズが入るので、「考える」とか「本を読む」とか「勉強する」というような、目の前のことに集中することが殆どできなくなる。日中は仕方なく相手して夜を迎え、ようやく寝かしつけたと思ったときにはこちらも疲労困憊、もはや何かを考えようという気になれず、そのまま寝てしまうか、ボーっとしてしまう。そうやって毎日が無為に過ぎてしまう。最初の頃は相当なストレスを感じていたが、さいきんはもうそれが習い性になってしまって、諦め始めている。世の中の立派なご両親は、こうした子育てと自己研鑽を同時に成し遂げているようだが、もともと怠惰なわたしにはとてもそんな真似ができない。毎日が無為に過ぎていくような虚しさが続く。

 

もちろん子供が嫌いなわけではない。それに、子供を持とうと思ったのは自分自身の意志でもあり、配偶者との合意の結果である。最近の世相で言われることばで言えば「自己責任」だ。そうやって授かった子供に文句を言うのは筋違いだ、となる。しかし、なぜここまで子供にコミットしなければならないのか、正直よくわからない。一日に24時間あって、単純に8時間を睡眠、8時間を仕事に割り当てるとすると、残りの8時間のうち、たとえばその半分の4時間を子供にとられるというのが本当に尊いことなのだろうか。実際には子供の相手をしていると時間が細切れになっており、4時間もとても使えていないというのが実感だ。結果、睡眠時間を削るしかなくなってしまう。

 

世の中は子育てに対して肯定的な話が溢れているように思う。わたしも子育てを通じて子供から色々と教わることはあるし、子供を育てることによって親としても成長するという感覚もある。また、言うまでも無く我が子は可愛いものだ。したがって、子育てが本質的に素晴らしいことであるというのは同意するが、だからといって良いことばかりのように書かれると、「ホントか?」と思ってしまうのもまた事実である。そんなに子供にコミットすることが正しいのだろうか? 子供と一緒にすごすことはそれほど大切なことなのだろうか? それによって失われた時間はいったいどうするのだ?

 

よく耳にするのが、子供の成長は一瞬一瞬なので、その瞬間を見逃すと後悔するという類の話だ。これは本当なのだろうか。おそらくは、実際に歳を取ってみないとわからない類の議論だろう。究極的にはトレードオフの話であって、子供の成長に立ち会うという代わりに、その分、他の事に使えていたはずの時間をそちらにまわしているということだから、結果だけ見てどちらが正しかった(自分にとって良いかどうか)は事前にはわからないし、事後的にも大いにバイアスがかかっていると見るべきだろう。コストを費やしてしまったことを正当化するため、公平に見て損失のほうが大きければ大きいほど、普通の人間ならついつい「子供と過ごせてよかった」という記憶にすり替えてしまうだろう。認知的不協和の解消というやつだ。過去に費やしたサンクコストを正当化するために「子供と過ごせてよかった」という側面を過大に評価してしまっているのではないか。もちろん、こういうのは1か0かの議論ではないのだが…。

 

まあ、要するに、どんどん莫迦になっていっているような気がするわけです。