One of 泡沫ブログ

世の中にいくつもある泡沫ブログの一です。泡沫らしく好き勝手書いて、万が一炎上したら身を潜めようと思います。※一部のリンクはアフィリエイトです

パシフィック・リム【吹替】

ほんの1ヶ月前にIMAX 3D字幕版を見たのだが、あまりに面白かったため、つい吹替版も見てしまった。残念ながら3Dの上映は終わっているらしいのだが、この映画は劇場で見るためにあると思う。未見の方は万難を排してまず見に行くべきだろう。

 

この作品の魅力は、映画評論家の町山氏が余すことなく語っているが、簡単に敷衍すると「われわれの頭の中にぼんやりとあるロボットアニメや特撮映画のイメージが、大迫力で実写(CG)版となっている」というところに尽きるだろう。世代によって、「怪獣」や「特撮」、「ロボット」というワードから想起されるイメージはさまざまだろう。マジンガーZや鉄人28号、ウルトラマンにゴジライデオンにガンダムにマクロスエヴァンゲリオンに至るまで、これまで、日本においてはこうした作品は数多く製作され、それらは互いに影響を受けたり及ぼしたりしながら、繰り返し作られてきた。しかし、いやしくも日本に生を受けた少しオタク気質の人間なら、これらの作品のどれかに、どこかで必ずなんらかの影響を受けて成長しているはずだ。もちろん、わたしの頭の中にもぼんやりとした「特撮」のイメージはある。わたしの場合は「ゴジラ」と「エヴァンゲリオン」くらいしかまともな視聴履歴がないが、それでも鉄人のずんぐりしたフォルムは目に浮かぶわけだし、マジンガーZの「パイルダーオン」も勿論知っている。「ロケットパンチ」は「超合金ロボ」で経験済みだ。

 

わたしたちにとって、巨大ロボットの手は手首から先がボタン一つでびよよよんと飛ぶものなのだ。

わたしたちにとって、巨大ロボットは人間がやけにメカメカしい仕組みで大げさに乗り込まなければならないのだ(鉄人違うが)。

わたしたちにとって、巨大ロボットとはさまざまな武器を持ち、ピンチのときには見たこともない大技を繰り出さなければならないのだ。

 

ギレルモ監督の『パシフィック・リム』は、まさにこのわれわれの茫洋とした、つかみどころのないイメージを、まさに映像にしてくれているのである。いやマジで。これを見に行かないのはサブカル愛好家としては罰当たりとすらいえよう。とにかく見に行くべきであるw

 

とはいえ映画なので、ストーリと言うか、世界観を支えるための色々なギミックはある。怪獣は太平洋の裂け目から生まれてきていて、地球を侵略しようとしている。それに対し、人類は対怪獣用の超巨大ロボット「イェーガー」を作った。基本的にはこの構図でひたすらイェーガーに乗った人間が、怪獣をぶっ倒すわけある。ただ、これに付随する心理描写は淡白極まりなく、いちいち面倒なことは考えなくて良い。この世界では力こそが正義なのである。シンジ君のようにロボットに乗るか乗らないかなどと迷うような面倒くささはない。逡巡しなくもないが、一度乗ってしまえば、もうあとはヒーロー一直線、コブシで語るだけだ。

 

というわけでもう殴る殴る、ドでかいロボットがこれでもかと怪獣を殴る。対する怪獣も負けじと街を壊す壊す。街はロボットや怪獣の大きさを際立たせるため、そして、破壊されるために存在すると言っても過言ではない。とにかく太平洋周辺の名のある大都市はみんな怪獣とイェーガーにぶっ壊される。

 

音楽もいい。イェーガーがノシノシと歩くシーンで、「ちゃららーらららー♪」と例のメインテーマがサビになるところでは毎回鳥肌ものである。さあ、これからぶん殴りにいくぞ、怪獣をぶっ倒すのはイェーガーのコブシだ!という感じになるのである。

 

 

書いていて気付いたが、この映画はもしかしたらプロレスが嫌いな人は抵抗があるかもしれない。物理的な合理性を考えれば突っ込みどころが多すぎるからだ。なぜ人型なのか、なぜ壊れやすい指とかを作るのか、そもそも強力な武器があるならなぜ初めから出さないのか、あんな飛行機で80メートル近いロボットが吊り下げられるわけがない…等々。そういう論理的思考はことエンターテイメントの世界ではもっとも不要な洞察である。プロレスを見て「何でこいつはよけないんだ?」とか言う小賢しい連中には、ご退場いただくのが双方にとって幸せなことだろう。

 

吹替の声優についてはあまり興味がないので他に譲ろう。だが決して不満があるわけではない。これはキャストも考え抜かれている。ケンドーコバヤシ氏はともかく、それ以外の人選はむしろ日本のロボットアニメの歴史を考えると王道すぎるのかもしれない。それくらいハマッていてまったく違和感がない。ということなので字幕だろうが吹替だろうがまったく違いなく双方楽しめる。さあ、劇場へGOだ。

これから10年、新しいお金とのつき合い方

 

ある仕事の帰り、日本橋の丸善に立ち寄ったところ、目立つ位置にディスプレイされていたので思わず買ってしまった。以前「外資系企業で成功する人、失敗する人 (PHP新書) 」というのを読んだことがあり、著者に関しては概ねバックグラウンドを把握しているつもりだったため少し期待していたのだが、今回の本はいわゆる「やっつけ」の類であろう、あまり丁寧に作ってある感じがしなかった。データや主張の裏を取っておらず印象で騙っている部分も多く、残念なことに一部タイポなどもあった。とはいえ内容はそれほど突っ込みどころはないように思う。この手のライトなマネー指南本として内容は悪くないし、業界に変な気を遣うこともなく率直に事実を語っていておもしろい。「公的年金はすでに破綻しています」と言い切っているところなどは好感が持てる。

 

しかしながら、どうも既視感がぬぐえない。おそらく、この手の本としては山崎元氏や橘玲氏の一連の著作に親しんでいれば本書は買う必要はないのだろう。山崎氏や橘氏などにもみられるスタンスであるが、著者は「読者は自分で考えて欲しい」というスタンスに立ちながらも、随所に「こうしなさい」という記述が多く見られ、結局マネー本の説く教義はこれしかないのかなと、ややズレた感想を抱いた(笑)。とはいえ、先ほど引き合いに出した橘氏などはもう少し読者を突き放しており、自分の頭で考えられない読者をドンドン置いてけぼりにする傾向があるように思う。それに比べれば、著者はもう少し読者、すなわちわれわれのような「情報弱者」に配慮しており、答えを欲しがる現代人としてはこちらのほうが読みやすいのかもしれない。

 

ところで、この手のマネー本をいくら買って読んだところで、耳年増になるばかりで絶対に資産家にはなれないことだけは間違いない事実である。とくに本書はそうであろう。何といっても著者は「お金に色がついている派」らしく、本書で次のように述べている:

 

お金は汗水たらして稼いだものが一番、尊いのです。それが時給1000円のものであっても不労所得の1000円よりも価値があると考えます。 

 

しかし、実際は資産家というのはすべて例外なく不労所得で得た利得をさらに投資することで利得を得るサイクルを手にし、そこから結果的に大きな資産を保有しているのであって、自分が働くことを前提にしている以上、いつまで経っても「ファイナンシャルフリーダム」にはなれないのではなかろうか。橘氏の言うところの「月並みの国」の住人の未来はいつまで経っても労働者に過ぎないのである。結果としてのお金に色がついてあると思うのは、自分の労働に意味を見出したい貧乏人の防衛機制ではあっても、資産を増やすことには何の貢献もしてくれない哲学だろう。

 

とはいえ、人生が幸せかどうかは、著者も言うように資産の多寡とはまた別の話であろう。たとえば明日急に死んでしまえば幸せもクソもないし、そして明日突然死んでしまうような可能性は常にあるわけで、結局のところ幸せかどうかは究極的には事前に予見のしようがないのではなかろうか。わたし自身は、人生については不可知なものとして付き合っていくしかないように思っている。

 

道重さゆみさんを応援(?)しています

のっけからタイトルとまったく関係なさそうな話で恐縮ですが、『インターネットのカタチ―もろさが織り成す粘り強い世界―』で著名なあきみち氏が面白いことを書かれておりました。

 

そもそもネットに書き込む必要ってあるの? - Geekなぺーじ

 

ふむふむ、なるほど。一理あります。拙ブログのようにアテンションとは無縁の泡沫ブログにはあまり関係のない話と一瞬思ってしまいますが、こういう問題は(PVの多寡によらず)ブログを書いている人なら誰しも少しは考えたことがあるネタでしょう。そもそも、わたしは何のためにこんな文章(または画像)を書いてインターネットに公開するのか?

 

どのようなかたちであれ、一度でもインターネットに公開してしまった文章や画像は半永久的に保存されてしまうわけです。魚拓などを取られるほどでなかったとしても、必ずどこかのログには残るわけで、技術的には完全に削除することは殆ど不可能なわけです。また、どれほど気をつけて「匿名」を守ったとしても、一度妙なアテンションを得てしまうと、いとも簡単に「特定」され、「電凸」されてしまう可能性も十二分にあるわけです。何が炎上のきっかけになるかは、ネットリテラシのあるなしに殆ど関係がないようにも思えます。気をつけたところで、目をつけられて印象操作されたら、素人ブロガーなどとんでもないことになるはずです。よほどアテンションが必要なプロ()のブロガーでもない限り、殆どネガティブなリスクしかないのではないでしょうか。

 

…とまあこういう状況にあって、なぜわざわざ危険を冒してまでインターネットにモノを載せようとしているのか?

 

僕は「アマチュアブロガ―にとっての勝利」って、まさにこの「自分が読んでいてほしい人たちに向けて発信したものを、その人たちがいいと思ってくれること」だという気がするのです。

 

アマチュアブロガ―にとっての「勝利条件」 - 非リア戦記

 

非常によいことが書いてあります。まさに、その通りだと思われます。ブログをやる理由なんて究極的にはこの一点に尽きると言っても過言ではないでしょう。本当に誰にも読まれない(読者を想定しない)のであれば、私的な日記として書くにとどめるはずです。公開すると言うことは、やはり、多少なりとも読者を意識するということでもありましょう。

 

…といっても、拙ブログにはこんな立派なビジョンはありません(わたしのブログは本当にただの「便所の落書き」で、大したポリシーがあるわけではないです)。結局のところが言いたいのか? ここでようやく迂遠な(無駄な)前フリは終わり、おもむろに本題に入らせていただきますが、つい先日、モーニング娘。道重さゆみさんのファンサイトを発見し、これこそ(アマチュア)ブログを書く、ひとつの答えであろうと思ったわけです。単にすげぇと思っただけですが、それだけだと芸がないので少し迂遠に修飾してみました。このサイトには道重さんへの愛が感じられ、どうせ書くならこのくらい書いてみたい、と思っただけでした。

 

shigefan: 道重さゆみファンサイト

 

わたしはコンサート等にも行ったことがなく、もちろんファンクラブにも入っていない「ファン未満」ではありますが、道重さゆみさんが気になって仕方がないので、こうした「印象批評」をしてくれるサイトは非常にありがたいと思うわけです。以上。

パシフィック・リム

めちゃくちゃ面白い。

 

ストーリは単純明快、心理描写がどうのこうのと煩いことを言う人にはオススメできないが、でかいロボットに人が乗り込み、神経接続でロボットを操縦、世界を救うために怪獣とガチで闘う…もうこれだけで、われわれ世代は見なければならないという気にさせられる。

 

今回わたしはIMAX3Dで観たのだが、コンピュータグラフィックスの精度が恐ろしく高いのであろう、ほとんど「特撮感」がなかった。CG部分が浮いて見えるようなあの感じがないのである。あまりに違和感を感じないので、怪獣や「イェーガー」の巨大さが自然に感じられる。現実にこういうロボットを作ったらこんな感じになるのであろう。

 

こういう作品は映画館で見るに限りますな。今回は観れてラッキーでした。

インターネットで自己管理

最近は殆どのサービスでウェブの窓口が用意されているので、住所変更などの手続きがたいへんやりやすくなった。わたしはここ15年で引越しを9回ほどしているのだが、そのたびに段々と便利になっていく世の中を実感している。電気・ガス・水道などのライフラインをはじめ、銀行口座、携帯電話、クレジットカード、年金、インターネット回線など、いまでは引越しのたびに発生する諸々の手続きの殆どすべてを自宅からできるようになっている。これは大変ありがたい。

 

しかし、ウェブは手続きは便利なのだが、IDやパスワードを適切に管理する必要が発生しており、これがまた、結構面倒で困る。サイトごとに仕様が個性豊かというか、IDやパスワードに制限があったり、システムメンテナンスが頻繁に発生したりするものもある上に、どんどん増えていくので、手帳にメモするというのではとても追いつかない。かといって同じパスワードを使いまわすのもセキュリティ管理上宜しくない。たまに流出したりして、パスワードもたまに変えなければならないので、もう手作業は無理である。

 

わたしはいま、おそらく60個くらいのウェブ用のログインIDがある。これらはすべてパスワードマネジャで管理しているのだが、もし、これがクラッシュしたら、すべて再発行するのにどのくらいのコストがかかるのか想像もつかない。考えるだに恐ろしい。インターネットは便利であるが、自己管理がこれまで以上に難しくなったといえよう。一回アクセスしたっきり二度とログインしないサービスなども含めると、いったいいくつのサイトに大小の個人情報を入力してしまったのだろうか。サイトの運営側も、適切にパスワードやクレジットカードの情報を管理しているとは言いがたい。わたしの体感だと、パスワードを生で保存しているサイトは6割くらい、クレジットカードの番号を生で保存しているサイトは8割くらいであろうか。そういうことも含めて管理していかねばならないことを考えると、便利さとの引き換えに、これは結構たいへんな世の中なんじゃないか?と思ったりもする。

モーニング娘。のファンになってしまったオッサンはどうすればよいのか

昨年の今頃、たまたま見かけたモーニング娘。のPVをYouTubeでみかけて、いい年こいたオッサンが、大変恐縮なのだが今更ファンになってしまった。そのとき観たというPVがこれである。

 


モーニング娘。 「One・Two・Three」 (MV) - YouTube

 

ちょうど新垣さんが卒業した直後のことで、事務所的には「新生モーニング娘。」としてあたらしいイメージで売っていく時期だったのだろう。そういうプロモーションにハマってしまった自分もなかなかミーハーであり大変情けない限りであるが…。あまりにハマってしまったせいで、勢い余って以前のブログでこんな駄文をいっぱい書いてしまったほどである。読み返してみると当時の興奮が思い出されて面白いw 道重さん推しなのを隠そうとして隠しきれて居ないあたりが気持ち悪い。

 

ということでわたしは、いい年こいて(30代)今更モーニング娘。、とりわけ道重さゆみさんのファンになってしまい、連日ハロプロ関連のニュースやまとめサイトを巡り、さゆのブログを定期巡回し、ハロー!のホームページでメディア出演情報を確認するようになってしまった。その後も握手会などが開催されるのを聞きつけ、新宿の「福家書店」にも何度か足を運んだり、渋谷東急の跡地で開催されたイベントなどにも並ぼうとしたりしたことがあるのだが、行列をみるといつも戦意喪失して何もせずに帰るというヘタレぶりを発揮してしまっていた。想像してみて欲しい、いい年こいたサラリーマンが、会社帰りにモーニング娘。のイベントに参加しようか、どうしようかと悩み、行列の前でうじうじと行ったり来たりするサマを。哀れすぎて言葉が出てこないであろう。

 

そんな私であるが、先日ついにNHKの公開収録に参加したのである。生まれて初めてテレビの公開収録というのに参加したのだが、席次的に結構いい位置だったため、少なくとも肉眼で表情が確認できるくらいの位置で、初めて道重さんを観ることができたのである。こうなるともう変なスイッチが入ってしまったというか、ハロコンや娘。コンに「参戦」する可能性が、にわかに現実味を帯びてきた。自分で書いていてじつに気持ち悪いが、アイドルにハマってしまうという心理はなかなか言葉で説明するのは難しい。

 

ところが「ニワカ」の悲しさからか、コンサートチケットをどうやって取ったらいいのかわからない。周りには当然ながら、アイドルのコンサートに行くような友人知人が居ないため、そもそもシステムそのものがよくわからない。今までライブの類に行ったことがないため、チケットというのがどこで流通しているかもよくわからない。わたしはそれなりにインターネットリテラシはあるほうだと思うのだが、実際、あまりにも土地勘がなさすぎることには、「何から調べてよいかわからない」という状況になるようだ。

 

とりあえず、ハロー!プロジェクトのコンサートは、娘。単体でやっているコンサートの他に、ハロプロ全体でやるコンサートというのもあり、それぞれ季節ごとにタイトルを打って全国を回っているのではないか、という仮説を持つに至った。スケジュールなどから想定するに、おそらく道重さんの卒業コンサートは2013年の冬か、もしくは2014年の春ではないかと想像している。わたしは、なんとしてもこの道重さんの卒コンというのに参加したいともくろんでいるのだが、意外にもチケットというのは簡単に売切れてしまう(?)ものらしい。果たして家族の白い目を振り切って、わたしは卒業コンサートに行けるのであろうか。そもそも、こんなことをしていてよいのだろうか。悩みは尽きない。

空気について

わたしの以前運営していたブログ『One of 泡沫書評ブログ』はもう殆どメンテナンスしていないのだが、たまに覗くといまでも「世捨て人」とか「世捨て人の庵」というキーワードからの流入があるようだ。社畜や非正規雇用などは今のホットトピックであるが、こうした文脈は2013年の現在もいまなお人々の興味をひいてやまないのであろう。

 

『世捨て人の庵』とは、かつて存在した大衆批判のはしりとも言うべきすばらしいサイトなのだが、残念ながら2010年の早い段階でサイトが閉鎖されてしまった(もう3年も経ったようで、時の経つのは本当に早いものである)。わたしはこのサイトをこよなく愛していたので、閉鎖の報を聞くやいなや、つい思い余って追悼エントリのようなものを書いてしまったのである。お時間のある方にはぜひリンク先のエントリを参照していただければありがたい。端的に言えば他人のふんどしで相撲を取っているだけなのだが、わたしがどれほど世捨て人氏を敬愛しているのかくらいは伝わると思う。

 

わたしは個人的な興味から、山本七平氏や井沢元彦氏などの著作をよく読み、いわゆる日本人論をすこしばかりかじっているのだが、世捨て人氏が繰り返し批判している「大衆」というキーワードは、これらの日本人論で言うところでの「日本教」というものそのものではないかと思う。

 

「日本教」またはそれに類する日本人特有のエトスに関してはさまざまな人がさまざまに論じているが、おおよそ次のようなところに収斂するものと思う。 @essa さんの日記に秀逸なエントリがあったので少し引用させてもらうと、「日本教」とはすなわち、次のような言葉で表現されるアレのことである。

 

山本七平の「空気」

阿部謹也の「世間」

河合隼雄の「中空構造」

岸田秀の「内的自己と外的自己の乖離」

井沢元彦の「言霊」

 

この人たちをはじめ、多くの人が日本人の精神構造とそこから来る社会の構造に、何か独特の要素があることを指摘してきた。このエントリでは、それらを総称して「日本教問題」と呼びたい。

 

日本教と原子力問題 - アンカテ

 

わたしは日本に生まれ、日本語で教育を受け、日本で暮らしている正真正銘の日本人すなわち「日本教徒」なのだが、日本教徒としては実に不真面目なことに、日本教の教義を言語化したり、教義を疑ったりするなどの冒涜行為を行っている。さいきんはインターネット上にもちらほら同様の破戒者がいるので心強い限りであるが、やはりリアル社会であまり冒涜を繰り返すと異端扱いをされることも多いため、普段は敬虔な日本教徒として生活を送っている。隠れ切支丹ならぬ「隠れ日本教徒」である。

 

この日本教の教義は密教であるため、口伝や儀式によって伝えられる。そのため理屈でものを考える人などには、何がOKで何がNGなのかが非常にわかりにくい。しかし、残念なことに、日本教では「どういうことですか?」と(言語化した)説明を求めること自体が一種の冒涜に当たるため、そういう不埒な教徒は異端として「面倒くさいやつ」として排除されてしまう。したがって初学者は必死で教義を覚える(=空気を読む)しかない。

 

例えば言語能力が皆無の上司に

「コミュニケーション力が必要です」

と教え諭されたとしよう。その際、あなたは

「わかりました!頑張ります!」

と笑顔で答えなければいけない。間違っても

「コミュニケーション力って具体的にどのような能力でしょうか。可能な限り具体的な事例で説明していただき、また、それを身に着けるための手段や方法があればあわせて教えてください。ちなみに、私が考えるコミュニケーション力とは…」

などと言ってはいけないのである。上司は要するに「空気を読め」と伝えているのだから、日本教徒ならば黙って空気を読まなければいけない。これはできる人には簡単で生き易いだろうが、できない人にとっては理不尽で苦痛を伴う社会であろう。

 

KYというような言葉も一時期はやったが、これなどもわかり易い例であろう。「KYな人は排除される」、これは日本教においては非常に重要な教義のひとつである。「KYなんて気にしなくて良い!」というような反論も、ある種の別の空気を醸成した上で発言されるという、逆説的に空気の恐ろしさを証明するだけであった。空気そのものを分析対象とし、言語化し、相対化して空気そのものを破壊するということは本能的に忌避されるわけである。もちろんこれ以外にも多くの教義があると思うのだが、空気はその全ての出発点と言ってよい根源的な要素といっていいだろう。

 

長くなってしまったがオチがない。ほんとうは空気から派生した「大衆」について論じてみたかったのだが、まとまらないので、それについては稿を改めて論じてみたいと思う。