One of 泡沫ブログ

世の中にいくつもある泡沫ブログの一です。泡沫らしく好き勝手書いて、万が一炎上したら身を潜めようと思います。※一部のリンクはアフィリエイトです

トコノクボ

 

 

激しく推奨する一冊。一冊というか、Kindleなので一本(?)というべきか。

 

著者は法廷画(ワイドショウとかでよくある裁判中の風景を描写するあれ)やキャラクターデザインなどを中心に活躍されているというフリーランスのイラストレータである。(著者サイト:トコノクボ

 

あまりネタばれをしてもよくないのだろうが、感想を書く以上、少々内容に触れざるを得ないので未読の方は少し用心して欲しい。(と、言ってもブログで全部読めるが)

 

本書の読後感はさっぱり心地よく、月並みな表現で恐縮だが、殺伐とした現代の世相の中でほっと一息つける、一服の清涼剤といえる。ここのところネットウォッチをしていると、やれノマドだ、グローバルだ、経済が破綻する、というような殺伐としたネタだらけで、少々疲れていたこともあって(そんなものばかり読むわたしが悪いのだが)、わたしは本作にいたく感銘を受けた。なぜこんなに感銘を受けたのだろうか。

 

その理由は、おそらく著者が田舎モノであるにもかかわらず(失礼)、成功したイラストレータとして充実した作家人生を送られているからであろう。

 

比べるのも恐縮だが、わたしも著者と同じようにド田舎の産で、かつて、郷里で上京を夢見ていた頃、毎日下手な絵を描いては、漫画家になりたい、いや、上京したら俺は漫画家になろう、とぼんやり考えていた。ま、わたしの場合は、実際の行動が伴っていないただの妄想だったわけだが…。話が逸れたが、わたしは同じ田舎モノとはいえ、著者の家庭環境と大きく異なっていたせいか、プロになるためには上京するしかないと固く信じていた。今考えると何の根拠があるのかわからないが、漫画やイラストを描く人は、とにかく東京の多摩地区(調布や三鷹、武蔵野あたり)に住んで、出版社に持ち込みをしないとだめだと考えていた。

 

わたしの場合、プロになるための具体的な活動を何もしていないので持ち込みもクソもないのだが、とにかく田舎に居てはプロになれないという信仰があったのだ。おそらくこれは多くの田舎モノに共通する心理だろう。高校を卒業したら、大学でデビューだ、というようなストーリである。とはいえ当時としては致し方ない事情もある。大学進学はともかく、少なくともある程度の都市に出ないと画材すら手に入りにくい時代だったのだ。地方に居てはコミケに行くなど夢物語であろう。当時はアマゾンのような便利な仕組みもないし、今ほど萌えとかオタクの市民権もなかったため、Gペンやスクリーントーンを買うにもアニメイトの通販くらいしか手段がなかったと思う。

 

まあわたしのしょうもない述懐はさて措き、とにかく田舎にいてはプロになれないという信仰があったわけである。ところが著者は後々になって結果的に上京するとはいえ、イラストレータとしての基礎は田舎時代に、パソコンとホームページだけでほぼ築き上げているのだ。

 

わたし、この点に強く感銘を受けたのである。

 

作中に説明があるとおり、著者の家庭環境はお世辞にも恵まれているとはいえない。そのせいで、著者はネット弁慶のわたしの目から見るとずいぶんと色んなことに関して世間知らずで、相当の「情弱」に見える。正直申し上げて、読みながらなぜこんなにモノを知らないのだろうかと思ってしまった。もしかしたらこのような情報格差は、都会と地方、あるいは大学に進学したか否か、というところに起因するものなのかもしれない*1

 

誤解をおそれずに言えば、著者はダウンサイドまみれのスタートラインから、結果としてイラストレータとして確固たる地位を確立されているのである。すばらしいことなのだが、わたしのような小賢しい人間は理由を考えずには居られないのである。なぜ、著者は、イラストレータという、非常に門戸の狭い業界において成功できたのであろうか?

 

 

客観的な視点から見ると、著者のこれまでの活動は結果的に優れたマーケティングであったということだろう。前任者の逝去に伴い空白となったポジションにタイミングよく入り込めたのも偶然ではなく、それまでに積み重ねてきた地道な活動による信用があったからに他ならない。仕事をやる上で必要な営業活動、信用を積み重ねること、需要者のニーズに即してタイムリーにアウトプットを出すこと、プロフェッショナルとしては当然のことなのかもしれないが、著者はそれらがすべてできていたということである。著者の度量の広さもあるのだろうが、自分から自分の市場を狭めるというような無益なことはしていないことも伺える。自分のやりたいことやスタイルに固執して営業の幅を狭めてしまうようなことは、『トコノクボ』を読む限り、殆どないように見える。

 

このように、外側をなぞっていくと、「自らのバリューが最適化されるよう、市場に対して適切にアプローチし、競合と差異化していった」というような話にあるわけであるが、驚くべきことに(?)、著者の場合こうした「ビジネスプラン」だとか「キャリアプラン」というようなことは、意識してやられていたわけではないのである。

 

わたしは最近ネットウォッチばかりをしているせいか、(できるできないはさておき)最短ルートはなにか、どういう市場だとどういうニーズがあるか、などといった外側をなぞる癖がついてしまって、やる前から「これは陳腐だ」「これはレッドオーシャンだから無駄だ」「この企業のマーケはへたくそ」というような、小賢しいことを考える知恵がついてしまった。

 

だが、本書を読んで、小賢しいことを考える暇があったら、まず無心に目の前のことに取り組み、いきなりショートカットしようとせずにまずやれることを丁寧に真摯にやらなければ、と改めて感じた次第である。どうにも、こういう青臭いことを考えるのが厭で、斜に構える癖がつきすぎていたように思う。

 

著者はこれまでの半生を振り返って、すべての点はつながっていて、一つの線になって今につながっている、と述懐されている。もちろんネット弁慶のわたしは、こういう話を読むと反射的にスティーブ・ジョブスの有名なスタンフォードのスピーチを思い出す。

 

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. 

 

'You've got to find what you love,' Jobs says

 

ジョブスが言うくらいだから、こういう話にカタルシスを感じるというのは、もしかしたら日本人だけではなく、ユニバーサルな感覚なのかもしれない。

 

まあ、ただの生存バイアスに過ぎないんですけどね。

*1:誤解のないように申し添えておくと、そもそも高等教育が受けられるか否かというのは、本人の能力もさておきながら、家庭環境、もっというと家庭の経済環境に負うところが大きいのではないかと思う。わたし自身、決して裕福ではなく、どちらかというと貧しい家庭に育ったが、著者の家庭のように荒んではいなかった。著者がもし、わたしの家庭に生まれたとしたら、おそらく大阪の美大や工芸大などに進学し、学生生活を通して多くの情報を得ていたであろう。一方、わたしが著者の立場だとして、果たして著者のように真摯な性格に育つかどうか、はなはだ疑問である

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド

ここのところゾンビ映画やTVドラマにはまっていて、話題の『ウォーキング・デッド』はもとより、『ワールド・ウォーZ』の原作者が書いたという『ゾンビサバイバルガイド』や、国際政治学の立場からゾンビをまじめに(?)考えるという触れ込みの『ゾンビ襲来 -国際政治理論で、その日に備える』という本をちんたら読んでいる。

 

 

あまり知らなかったのだが、ここ数年、「ゾンビ」というワードが登場する頻度が増えているようだ。わたしも駆け出しのゾンビフリークとして、自分が好きなジャンルが一般に膾炙していくというのはうれしくもあり、一方でメジャー化してしまうことに一抹の寂しさを感じる次第である。

 

とはいえわたしはリチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』でウィルスパニックものに感化され、一連の『バイオハザード』シリーズと、そしてせいぜい『ウォーキング・デッド』を観るくらいのもので、いわゆる古典というべきものは殆ど観たことがなかった。色々調べてみると、『アイ・アム・レジェンド』でおなじみの『地球最後の男』、そして、有名なジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のふたつが、いわゆる「ゾンビもの」の元祖といわれることが多いらしい。両方とも名作の誉れ高いが、モノクロ時代の映画なので、われわれ世代からするとなかなか観る気がしないというのが正直なところだ。というわけで、これまでずっと敬遠していたのだが、今回意を決して(笑)『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を観てみたところ、意外に良かった。さすがに今観るとありきたりのプロットのように感じてしまうわけだが、これが元祖だと思うと理屈が逆なんだと自分に言い聞かせる。むしろ映像などは、CG全盛の今からすると、よくもまあ特撮もなくここまで撮ったもんだなぁと感心した。下手すると80年代の日本の映画のほうがうそ臭いかもしれない。これが45年前の作品というから驚きである。

 

ということで、ゾンビ・フリークを名乗るにははずせない「古典」をようやく観れたのでご満悦である。今後もめぼしいゾンビものは片っ端から観ていこうと、本当に非生産的な決意をさせてくれた一作であった。

 

継続は力なり

テーマを自由に設定できるようにしてブログの更新頻度を上げようと思っていたのだが、思った以上に怠惰なせいでまったく続かなくなってしまった。ここのところ、軽い本ばかりだがいくつか本は読んでいるので、それをネタに備忘録的にでも書評(という名の要約)を書けばいいのだろうが、それすらおっくうだ。毎日家に帰ってきてから子供と格闘してエネルギィが吸い取られてしまう(ということにして)ので、まったくやる気がおきない。子供が居るのはありがたいが、人生における「時間」というリソースは有限である。子供を持つということは自分で使える時間を子供に振り分けるというポートフォリオでもある。理解していたつもりであるが、負荷は想像以上だった。

 

愚痴はさておき、そういう色々な障壁があるのは大人にとっては前提にちかい。たとえば仕事で「忙しかったからできなかった」とかいうやつは大人とみなされない(残念ながらわたしの周りにはたくさん居るが)。時間や体力気力といった有限のリソースをうまくコントロールしてそつなくアウトプットを出すのが正しい大人である。こういったしょうもないブログでも、やるとなったらきちんとパフォーマンスを出さねば(泡沫といえども)書く意味はないであろう。

 

継続するのは非常に難しいが、逆に言えばこういう小さな積み重ね、自分に課した約束事項をきちんと果たせる人は大成するのではないだろうか。継続は力なり。蓋し至言というべきであろう。

予想通りに不合理

 

結構前に出版されて話題になった「行動経済学」の入門書だが、文庫版(新版?)で見つけたので買って読んでみた。もっと堅い内容だと思っていたのだが、読んでみると大変読みやすい一般向けの本のようである。翻訳が素晴らしいせいもあるだろう。さらさらと読めてストレスなく読み終えることができる。巻末の引用文献を見ると、きちんとしたアカデミックな文脈で理解するのは難しそうだったが、われわれのようにビジネスに援用しようとする不届き者にはちょうどいい内容だろう。

 

これはビジネス書ではないのだろうが、下手なビジネス書より実務に役立つのではなかろうか。マーケティングの実務化には経験的にも学究的にも既知の内容なのかもしれないが、製品のプライシングやプロモーションなどで実務に応用できそうな内容が盛りだくさんで大変ためになった。考えようによっては、これは人間心理のメタな領域に踏み込んだやや危険な書といえるかもしれない。それは、これを読んだ素人がニワカマーケターとなってビジネスで大失敗することも含めて大変危険な本である(笑)。

 

…と、普段ならここで「予想通りに不合理」な事例を本書からいくつか引用してお茶を濁すところだが、今回は少し趣向を変えて、本を読んで思いついたことをふたつほど述べてみたい。

 

ひとつは、本書第9章「扉をあけておく」、すなわち、選択の余地を残しておきたがる性向についての話である。実験の結果によると、選択肢が複数あると、人間はその選択肢を残しておこうとするらしい。しかし、選択の余地を残す、もっと極端に言えば、態度を保留し続けることは、その間に大きな機会損失をしてしまっている可能性もある。だがそれは永遠に知りえないことだ。どちらの選択肢がよかったのかは誰にもわからない。時間は戻せないのだから。

 

極端な例を挙げれば、年頃の女性が「まだ自分の時間を大事にしたいから」と妊娠の機会を保留にしてしまうような態度が相当するだろう。妊娠してしまうと、子育てにリソースを取られてしまい、今の自由な生活を失ってしまう。いずれ妊娠すること自体は可能なわけで、とりあえず現状として「保留」することは、すなわち両方の選択肢を残し続けているということに他ならない。こうして、人はずるずると「扉を開けたまま」にしてしまうのだが、あるとき、一方の扉がいきなり閉じられてしまうことに気付くのだ。一方で、妊娠したことによる未来が、自分にとって望ましくないことだってあるだろう。結局のところ、未来は誰にもわからないのだから、色々予測を立てつつも、最終的にはエイヤで決めてしまうしかないのであろう。

 

わたしは以前にポジションの話を書いたことがあるが、これと同じ仕組みではないだろうか。時間軸が一方にしか進まない以上、現時点ではどういう立場を取ろうと、それは必ず一つのポジションを取っているといえる。言うまでもなく、保留というのもポジションのひとつだ。時間が有限かつ一方通行であることを忘れてしまうと、保留という選択の恐ろしさに気付かなくなってしまう。

 

何故このような話を長々と続けたかというと、個人的な話なのだが、わたしは大学生のときに「可能性の罠」という「真理」に気付いたのだが、このコンセプトが「扉の話」とそっくりだったからである。この造語はもちろんケインズの「流動性の罠」から拝借したものだが、言葉自体はわたしのオリジナル(のつもり)である。若い人に特に顕著な傾向であるが、自分にいくつもの選択肢があると思っていると、そのせいで何か一つを選び、そのほかの選択肢を諦めてしまうことができなくなってしまう、という性向のことを述べたものだ。わたしはこの「可能性の罠」という着想を得たときに、多少大げさにいうと「天啓を受けた」ような気持ちになった。何かが永遠に選択可能であるということはないのだから、主体的に選択行為を行っていこう、という気になったのはこの個人的な体験によるところが大きい。

 

しかし、ちょっと考えればわかることだが、凡庸な大学生が思いつくようなことは、既に偉い人はとっくに考え尽くしているものなのだろう。本書の275ページに書いてある通り、エーリッヒ・フロムが1941年に「近代民主主義において、人々は機会がないことではなく、めまいがするほど機械がありあまっていることに悩まされている」と分析されているようで、わたしにさかのぼること60年である(わたしが「可能性の罠」の着想を得たのは2001年頃)。…ということで壮大な自分語りであったというオチで、ひとつめの話は終わりである。

 

もうひとつは、第2章「需要と供給の誤謬」に書いてある価格のアンカリングについてである。これは簡単に言うとあるプライシングが基準になって、似たようなものの「値ごろ感」が人々に共有されると言うものである。スターバックスのコーヒーはドトールやベローチェの感覚からするとお高いものだが、似たようなつくり(シアトル風というのか?)のタリーズのコーヒーもまあ同じくらいの価格で受け入れられている。こういうのが所謂価格のアンカリングというやつである。

 

ここでわたしは素人考えをするのだが、たとえばクルマのように比較的ハードウェアがベースになっている消費財は、固定費が原価として「想像しやすい」ため、かかった原価にマージンを乗っけて出てきた価格に納得できる傾向にあると思う。勿論高級車になればなるほど利鞘すなわち粗利が大きくなるのであろうが、大衆車であってもだいたい150万とか200万くらいはかかるというのは何となく納得できるものである。(とはいえ、家電やデジカメのように、コモディティの波に飲まれているものは既にそうなっていないが…)

 

しかし、一方で外食のように明らかに原価が低い商材や、ソフトウェアのように原価が見えにくいものには、価格の納得性というのがいまひとつわかりにくいように思う。そのため、こういう業界は価格というのが一つのアンカーに必要以上に引きずられてしまうように思う。わかり易い例が牛丼であろう。色々値下げ合戦しているうちに、ほぼ280円という価格が業界標準のアンカーになってしまい、チキンレースをしているうちに価格が変えられなくなってしまった。デフレの象徴のようなものであろう。勿論、スターバックスのように「500円くらいの価格をアンカーにするちょっと高級な牛丼屋」というイノベーションがあるのかもしれないが…。

 

また、わたしが末席を汚す受託業界も、悪名高き「人月単価」という名で価格がアンカリングされており、詳細は言えないが「PG1人月○万円、SE1人月○万円、コンサル1人月○万円」という相場は確実に存在する。今はこれが下落傾向にありコンサル会社やSIerが皆苦しんでいるわけだ。

 

この流れはパッケージソフトウェア系も同様で、エンプラ系の場合、サーバライセンス○○円ユーザライセンス○○円とやっていた商売が、所謂「クラウドコンピューティング」によってアンカーをドンドン下げられてしまっているわけである。売る側の立場からすれば、ソフトウェアもクルマなどと同じで原価というのがあるから当然価格に転嫁しないとやっていけないわけだが(そして、それは必ずしもボッタクリというわけではなく、高度なプロダクト管理ができている製品にはエンタープライズ用途に耐えるだけの意味がそれなりにあるのだが)、ユーザは細かいインテグレーションの差異まで見ない(見えない)ので、機能だけで見ると価格のアンカリングが下方修正されているわけである。こうして、業界全体でデフレの傾向が強まり、市場全体としてみればシュリンクしていっているように思える。

 

ということで、ある種の「カルテル」なのだが、業界の慣行を価格で破壊するというのは、巡り巡って自分の首を絞めるだけだからやめようぜ、という話である。これは別に自分の業界だからそういっているわけではなく、象徴的に言えば「牛丼280円とか誰も幸せにせんだろ」ということが言いたいわけだ。何の話だっけ…。ああそうだ、『予想通りに不合理』の話だったのに、いつの間に自分語りになってしまったんだろうw

パシフィック・リム【吹替】

ほんの1ヶ月前にIMAX 3D字幕版を見たのだが、あまりに面白かったため、つい吹替版も見てしまった。残念ながら3Dの上映は終わっているらしいのだが、この映画は劇場で見るためにあると思う。未見の方は万難を排してまず見に行くべきだろう。

 

この作品の魅力は、映画評論家の町山氏が余すことなく語っているが、簡単に敷衍すると「われわれの頭の中にぼんやりとあるロボットアニメや特撮映画のイメージが、大迫力で実写(CG)版となっている」というところに尽きるだろう。世代によって、「怪獣」や「特撮」、「ロボット」というワードから想起されるイメージはさまざまだろう。マジンガーZや鉄人28号、ウルトラマンにゴジライデオンにガンダムにマクロスエヴァンゲリオンに至るまで、これまで、日本においてはこうした作品は数多く製作され、それらは互いに影響を受けたり及ぼしたりしながら、繰り返し作られてきた。しかし、いやしくも日本に生を受けた少しオタク気質の人間なら、これらの作品のどれかに、どこかで必ずなんらかの影響を受けて成長しているはずだ。もちろん、わたしの頭の中にもぼんやりとした「特撮」のイメージはある。わたしの場合は「ゴジラ」と「エヴァンゲリオン」くらいしかまともな視聴履歴がないが、それでも鉄人のずんぐりしたフォルムは目に浮かぶわけだし、マジンガーZの「パイルダーオン」も勿論知っている。「ロケットパンチ」は「超合金ロボ」で経験済みだ。

 

わたしたちにとって、巨大ロボットの手は手首から先がボタン一つでびよよよんと飛ぶものなのだ。

わたしたちにとって、巨大ロボットは人間がやけにメカメカしい仕組みで大げさに乗り込まなければならないのだ(鉄人違うが)。

わたしたちにとって、巨大ロボットとはさまざまな武器を持ち、ピンチのときには見たこともない大技を繰り出さなければならないのだ。

 

ギレルモ監督の『パシフィック・リム』は、まさにこのわれわれの茫洋とした、つかみどころのないイメージを、まさに映像にしてくれているのである。いやマジで。これを見に行かないのはサブカル愛好家としては罰当たりとすらいえよう。とにかく見に行くべきであるw

 

とはいえ映画なので、ストーリと言うか、世界観を支えるための色々なギミックはある。怪獣は太平洋の裂け目から生まれてきていて、地球を侵略しようとしている。それに対し、人類は対怪獣用の超巨大ロボット「イェーガー」を作った。基本的にはこの構図でひたすらイェーガーに乗った人間が、怪獣をぶっ倒すわけある。ただ、これに付随する心理描写は淡白極まりなく、いちいち面倒なことは考えなくて良い。この世界では力こそが正義なのである。シンジ君のようにロボットに乗るか乗らないかなどと迷うような面倒くささはない。逡巡しなくもないが、一度乗ってしまえば、もうあとはヒーロー一直線、コブシで語るだけだ。

 

というわけでもう殴る殴る、ドでかいロボットがこれでもかと怪獣を殴る。対する怪獣も負けじと街を壊す壊す。街はロボットや怪獣の大きさを際立たせるため、そして、破壊されるために存在すると言っても過言ではない。とにかく太平洋周辺の名のある大都市はみんな怪獣とイェーガーにぶっ壊される。

 

音楽もいい。イェーガーがノシノシと歩くシーンで、「ちゃららーらららー♪」と例のメインテーマがサビになるところでは毎回鳥肌ものである。さあ、これからぶん殴りにいくぞ、怪獣をぶっ倒すのはイェーガーのコブシだ!という感じになるのである。

 

 

書いていて気付いたが、この映画はもしかしたらプロレスが嫌いな人は抵抗があるかもしれない。物理的な合理性を考えれば突っ込みどころが多すぎるからだ。なぜ人型なのか、なぜ壊れやすい指とかを作るのか、そもそも強力な武器があるならなぜ初めから出さないのか、あんな飛行機で80メートル近いロボットが吊り下げられるわけがない…等々。そういう論理的思考はことエンターテイメントの世界ではもっとも不要な洞察である。プロレスを見て「何でこいつはよけないんだ?」とか言う小賢しい連中には、ご退場いただくのが双方にとって幸せなことだろう。

 

吹替の声優についてはあまり興味がないので他に譲ろう。だが決して不満があるわけではない。これはキャストも考え抜かれている。ケンドーコバヤシ氏はともかく、それ以外の人選はむしろ日本のロボットアニメの歴史を考えると王道すぎるのかもしれない。それくらいハマッていてまったく違和感がない。ということなので字幕だろうが吹替だろうがまったく違いなく双方楽しめる。さあ、劇場へGOだ。

これから10年、新しいお金とのつき合い方

 

ある仕事の帰り、日本橋の丸善に立ち寄ったところ、目立つ位置にディスプレイされていたので思わず買ってしまった。以前「外資系企業で成功する人、失敗する人 (PHP新書) 」というのを読んだことがあり、著者に関しては概ねバックグラウンドを把握しているつもりだったため少し期待していたのだが、今回の本はいわゆる「やっつけ」の類であろう、あまり丁寧に作ってある感じがしなかった。データや主張の裏を取っておらず印象で騙っている部分も多く、残念なことに一部タイポなどもあった。とはいえ内容はそれほど突っ込みどころはないように思う。この手のライトなマネー指南本として内容は悪くないし、業界に変な気を遣うこともなく率直に事実を語っていておもしろい。「公的年金はすでに破綻しています」と言い切っているところなどは好感が持てる。

 

しかしながら、どうも既視感がぬぐえない。おそらく、この手の本としては山崎元氏や橘玲氏の一連の著作に親しんでいれば本書は買う必要はないのだろう。山崎氏や橘氏などにもみられるスタンスであるが、著者は「読者は自分で考えて欲しい」というスタンスに立ちながらも、随所に「こうしなさい」という記述が多く見られ、結局マネー本の説く教義はこれしかないのかなと、ややズレた感想を抱いた(笑)。とはいえ、先ほど引き合いに出した橘氏などはもう少し読者を突き放しており、自分の頭で考えられない読者をドンドン置いてけぼりにする傾向があるように思う。それに比べれば、著者はもう少し読者、すなわちわれわれのような「情報弱者」に配慮しており、答えを欲しがる現代人としてはこちらのほうが読みやすいのかもしれない。

 

ところで、この手のマネー本をいくら買って読んだところで、耳年増になるばかりで絶対に資産家にはなれないことだけは間違いない事実である。とくに本書はそうであろう。何といっても著者は「お金に色がついている派」らしく、本書で次のように述べている:

 

お金は汗水たらして稼いだものが一番、尊いのです。それが時給1000円のものであっても不労所得の1000円よりも価値があると考えます。 

 

しかし、実際は資産家というのはすべて例外なく不労所得で得た利得をさらに投資することで利得を得るサイクルを手にし、そこから結果的に大きな資産を保有しているのであって、自分が働くことを前提にしている以上、いつまで経っても「ファイナンシャルフリーダム」にはなれないのではなかろうか。橘氏の言うところの「月並みの国」の住人の未来はいつまで経っても労働者に過ぎないのである。結果としてのお金に色がついてあると思うのは、自分の労働に意味を見出したい貧乏人の防衛機制ではあっても、資産を増やすことには何の貢献もしてくれない哲学だろう。

 

とはいえ、人生が幸せかどうかは、著者も言うように資産の多寡とはまた別の話であろう。たとえば明日急に死んでしまえば幸せもクソもないし、そして明日突然死んでしまうような可能性は常にあるわけで、結局のところ幸せかどうかは究極的には事前に予見のしようがないのではなかろうか。わたし自身は、人生については不可知なものとして付き合っていくしかないように思っている。

 

道重さゆみさんを応援(?)しています

のっけからタイトルとまったく関係なさそうな話で恐縮ですが、『インターネットのカタチ―もろさが織り成す粘り強い世界―』で著名なあきみち氏が面白いことを書かれておりました。

 

そもそもネットに書き込む必要ってあるの? - Geekなぺーじ

 

ふむふむ、なるほど。一理あります。拙ブログのようにアテンションとは無縁の泡沫ブログにはあまり関係のない話と一瞬思ってしまいますが、こういう問題は(PVの多寡によらず)ブログを書いている人なら誰しも少しは考えたことがあるネタでしょう。そもそも、わたしは何のためにこんな文章(または画像)を書いてインターネットに公開するのか?

 

どのようなかたちであれ、一度でもインターネットに公開してしまった文章や画像は半永久的に保存されてしまうわけです。魚拓などを取られるほどでなかったとしても、必ずどこかのログには残るわけで、技術的には完全に削除することは殆ど不可能なわけです。また、どれほど気をつけて「匿名」を守ったとしても、一度妙なアテンションを得てしまうと、いとも簡単に「特定」され、「電凸」されてしまう可能性も十二分にあるわけです。何が炎上のきっかけになるかは、ネットリテラシのあるなしに殆ど関係がないようにも思えます。気をつけたところで、目をつけられて印象操作されたら、素人ブロガーなどとんでもないことになるはずです。よほどアテンションが必要なプロ()のブロガーでもない限り、殆どネガティブなリスクしかないのではないでしょうか。

 

…とまあこういう状況にあって、なぜわざわざ危険を冒してまでインターネットにモノを載せようとしているのか?

 

僕は「アマチュアブロガ―にとっての勝利」って、まさにこの「自分が読んでいてほしい人たちに向けて発信したものを、その人たちがいいと思ってくれること」だという気がするのです。

 

アマチュアブロガ―にとっての「勝利条件」 - 非リア戦記

 

非常によいことが書いてあります。まさに、その通りだと思われます。ブログをやる理由なんて究極的にはこの一点に尽きると言っても過言ではないでしょう。本当に誰にも読まれない(読者を想定しない)のであれば、私的な日記として書くにとどめるはずです。公開すると言うことは、やはり、多少なりとも読者を意識するということでもありましょう。

 

…といっても、拙ブログにはこんな立派なビジョンはありません(わたしのブログは本当にただの「便所の落書き」で、大したポリシーがあるわけではないです)。結局のところが言いたいのか? ここでようやく迂遠な(無駄な)前フリは終わり、おもむろに本題に入らせていただきますが、つい先日、モーニング娘。道重さゆみさんのファンサイトを発見し、これこそ(アマチュア)ブログを書く、ひとつの答えであろうと思ったわけです。単にすげぇと思っただけですが、それだけだと芸がないので少し迂遠に修飾してみました。このサイトには道重さんへの愛が感じられ、どうせ書くならこのくらい書いてみたい、と思っただけでした。

 

shigefan: 道重さゆみファンサイト

 

わたしはコンサート等にも行ったことがなく、もちろんファンクラブにも入っていない「ファン未満」ではありますが、道重さゆみさんが気になって仕方がないので、こうした「印象批評」をしてくれるサイトは非常にありがたいと思うわけです。以上。