One of 泡沫ブログ

世の中にいくつもある泡沫ブログの一です。泡沫らしく好き勝手書いて、万が一炎上したら身を潜めようと思います。※一部のリンクはアフィリエイトです

マルチリンガルの外国語学習法

 

「英語学習法」ではない、「外国語学習法」である。著者はなんと専門の言語学者ではなく、ふつうの(!)勤め人らしいが、その傍らで複数の言語に親しみ、イランやトルコ文学を翻訳する、翻訳家兼研究者のような活動をされているという。しかし、そのマスターした語学の数が凄い。「はじめに」に、著者がこれまで「かかわってきた」言語が羅列されているので、ざっと紹介してみよう。次のとおりである:

 

・スペイン(カスティーリャ)語

ポルトガル語

カタルーニャ語

・フランス語

・イタリア語

ラテン語

ルーマニア語

・ペルシア語

トルコ語

・正則アラビア語

・聖書ヘブライ語

・ドイツ語

アゼルバイジャン

・パシュトー語

ウルドゥー語

ヒンディー語

ウイグル

ウズベク

・ロシア語

・英語

 

このうち太字にしたものは、「読む」「書く」「話す」の三要素を「一応バランスのとれた状態でこなせる」というらしいから、これは本物のPolyglotである*1。もちろん母語(著者の場合、日本語)が加わるために、操れる言語は10になるという計算である。どういう脳みそをしているのであろうか。

 

さて本書はいわゆるPolyglotものの勉強法であるが、わたしが読んだ限り、あまり一般の役に立つような、いわゆるハウツーの勉強法は殆どかかれていなかった。*2。Polyglot系の本に多いが、むしろこれは、多言語話者(というより、翻訳家か?)がどのように言語というのを捉えているのか? について文字通り興味本位で読む、ある種の「物語」と割り切ったほうがいいだろう。というのも、おそらくこのレベルで語学を志す人というのは、もはや存在自体が珍しいため、そもそも万人に向けた勉強法などが存在するはずもないからだ。言い方は悪いが、こんな新書一冊読んだ程度でPolyglotになれるなどと考えるほうがどうかしている。

 

著者はもともと帰国子女だそうだが、幼少期に明確な母語がなかったために、感情をうまく表現することができず、不安定な時期を過ごしたという。これはバイリンガル系の本を読んでいるとよく読む話で、たしかに自分の考えていることを言語化できないというのは、自己を確立する上でも大きな障害であるようにも思う。少し趣旨が異なるかもしれないが、同じPolyglot系の本で『語学で身を立てる』という良書があるが、こちらにも次のような記述があった: 

 

外国語がどのくらい習得できるかは、日本語がどれだけできるかにかかっている、といっても過言ではありません。アメリカからの帰国子女の母親で「うちの子は英語には困らないのですが、漢字が書けなくて……、英語で話したほうが楽だなんていうんです」と嬉しそうにこぼす人がいましたが、このような子どもは日本で語学を仕事にすることはできません。実際、その高校生は、発音は素晴らしくよいのですが、その話しぶりはアメリカ人の小学生が話す英語そのまま、文章を書かせると子どもの日記みたいな調子で、綴りも間違いだらけというありさまでした。(後略)

 

 

この高校生のような状態であれば、おそらく自分の考えていることを正確に伝えるということは母語でも難しいだろう。というより、日本語が不自由なだけでなく、英語ですら満足に運用できないわけだから、自分の母語がどちらなのかもわからない状態なのかもしれない。わたしはこういう状態に置かれたことがないので想像でしかないが、恐らく感情的に非常に不安定な状態になるのではないだろうか。

 

本書の著者である石井氏も、「小学校高学年になっても、全然年齢相応の言語による自己表現力がなく、まわりとの協調ができない。今風に言えば、わけもなくすぐキレるというやつである。まともな言葉が通じない、粗暴で極度に情緒不安定、最低の問題児であった」と述懐している。現在、海外一世として活躍されている方のブログなどを拝見しても、子女の母語選択にはかなり気を遣っていることが伺える。バイリンガルというのは放っておけばできるものでもないらしい。

 

話がまた逸れたような気がするが、本書の妙味は、ふつうの語学屋ならとても到達できなさそうな領域から語学について語っているところにあるだろう。とくに面白いのは英語に対する概観である。Polyglot的な観点からみた英語という言語はどうやら特殊な言語であるらしく、先に紹介した『語学で身を立てる』の猪浦氏も、他の主たる西洋言語に比べて著しく語形変化が少ない言語だと書かれている。日本人にしてみれば英語の語形変化は十分多いような気がするわけだが、仏語や独語などから見れば圧倒的に少ないのは事実である。そのため、文法上、非常に多彩な解釈が可能になってしまうという言語上の問題が発生してしまうらしい*3。また、やや複雑な文法上の概念として「接続法」、英文法でいうところの「仮定法」に関する例が紹介されている。これは、英語がいかに他の印欧語に比べて接続法が退化しているか、という説明をされているわけだが、残念ながらわたしに語学的な素養がないのでそのエッセンスをうまく伝えることができない。本書をぜひ読まれたい箇所である。(面白いよ)

 

以上どこまで本書の魅力をお伝えできたのか甚だ疑問であるが、いい年こいて「外国語がペラペラになりたい」などという、言わば中二病がなかなか治らないオッサンが読んだら、「やっぱり英語くらいは何とかできるようになりたい…」という気持ちにはなったので、そういう効用は間違いなくあるだろう。

*1:本文中にもあるが、ラテン語は現在では死語であり、日常的に使用する人は殆どいないであろう

*2:「はじめに」にちゃんと断りがある

*3:そのため、英語は慣用句的な用法のバリエーションが多くなり、システマティックに理解することが難しく、要するに理屈じゃない場合が多い…というようなことを何かで読んだが、出典を忘れてしまった

だまされたと言う人には要注意

目も耳も口も節穴だらけの烏合の衆 - いすみ鉄道 社長ブログ

 

新聞はおろか、テレビニュースすら見ないのでまったく時期を逸してしまった感がありますが、それでもわたしの主たるニュースソースであるTwitterやにちゃんまとめサイトなどでも話題になっていることから、遅ればせながら、大きな注目を集めていることがわかりました。何とか河内氏のゴースト問題というやつです。

 

わたしは作曲に明るくないのですが、まあ著名な人の名前を貸したり、元請けのようなかたちで、クレジットに名前が出る人と実際に製作する人が違うということは別に作曲の業界でもあるんだろうな、と思いましたので、最初何が問題なのかよくわかりませんでした。が、その後、後追いで少し記事をいくつか追っかけてみたところ、聾? の方が作曲していたという物語にケチがついたということと、そもそも聾自体が嘘だったのではないか、という二点で批判が殺到しているとのことで、なるほどと腑に落ちました。要するに、消費者(というより、マスコミでしょうか?)の逆鱗に触れているのは

 

・聾者が作曲していたという感動の物語が嘘だったということ

・そもそも聾であるということ自体が嘘である可能性が高いこと

 

この二点が大きな理由になっているわけです。ははあ、なるほど、という気がします。ここから、端的に言うと「だまされていた、感動を返せ!」というような論調につながっていくわけでしょう。よくできたシナリオといえます。

 

第二次世界大戦中、イケイケと戦争を煽っていた新聞社がありましたが、敗戦と同時に、「戦時中は大本営にだまされていた(だからわれわれは悪くない、悪いのはわれわれをだましていた軍部だ)」というようなことを自信満々に書いていた新聞社があったと聞きます。実際、戦争が終わると、「俺は初めから反対だった」という手のひらを返す人間は非常にたくさんいたそうです。それもそのはずで、誰だって戦争の片棒を担いでいたと思われたくありませんから、後出しでポジションを取り直せるものなら誰だってそうしたいはずです。こういう動機があるときに、「だまされていた」というのは非常に便利で巧妙なギミックといえます。なぜなら、実際に戦争を煽っていたことは事実なのですが、その事実を否定せず、矛盾なく自分のポジションを加害側から被害側にスイッチすることができるからです。この場合、悪いのは軍部であり、大本営であり、新聞社はこれらの悪に「だまされた」善良なる社会の木鐸ということになるからです。平和を愛する実に立派な新聞社で、日本の良心です。すばらしい新聞社です。次に手のひらを返すのはいったいいつになるのか楽しみですが、わたしはその新聞をとっていません。

 

大好きな新聞社のことでつい興が乗ってしまい、話が逸れました。それはともかく、「偽作曲家」氏に「だまされた」人たちは、誰にだまされていたんでしょう? なぜ、「だまされていた」というスタンスを取らざるを得ないのか、どういうポジションを守ろうとしていたのか、容易に想像がつくような気が致します。「聾」者が作曲した「感動の」名曲…。こういう、敢えて言いますが「お手軽な」物語を消費したい、という心理こそ、われわれが「だまされてしまう」原因だとわたしは思います。

 

そうなると、あとで「あ、やっちまった」という感情から、「いや、わたしはだまされていただけなんだよ(=だから俺は悪くないよ、悪いのはだましていたTVなんだよ)」ということを言いたくなるのもよくわかります。ですが、それを言っちゃあオシマイというやつですな。どう考えても、だます側とだまされる側に共依存的な関係があるのですから、だまされた側だけが一方的に免責されて、正義面してだます側を断罪するというのは、無粋に過ぎるというものでしょう。

新年の抱負

あけましておめでとうございます。…といっても、大して更新していないブログで挨拶をするほどむなしいものはありません。

 

今年の目標は、ちゃんと勉強することですね。同世代のひとたちが色々なことにチャレンジしている中、何も変化のないわたしの人生に華を添えるのが今年の目指すところであります。

 

昨今、意識しているわけではないのですが、Twitterに費やす時間が減ってきて、多少、精神衛生が改善されたように感じております。その時間はパズドラに向けられているので、相変わらず勉強時間は少ないままなのですが、少なくともTwitterよりもパズドラは健全であり、時間の使い方として「まだマシ」のような気がしています。いやほんと、パズドラ、よくできたゲームですよ。課金し始めてしまうとやばそうなので何とか思いとどまっておりますが…。

 

今年も頑張ってまいりましょう。

トコノクボ

 

 

激しく推奨する一冊。一冊というか、Kindleなので一本(?)というべきか。

 

著者は法廷画(ワイドショウとかでよくある裁判中の風景を描写するあれ)やキャラクターデザインなどを中心に活躍されているというフリーランスのイラストレータである。(著者サイト:トコノクボ

 

あまりネタばれをしてもよくないのだろうが、感想を書く以上、少々内容に触れざるを得ないので未読の方は少し用心して欲しい。(と、言ってもブログで全部読めるが)

 

本書の読後感はさっぱり心地よく、月並みな表現で恐縮だが、殺伐とした現代の世相の中でほっと一息つける、一服の清涼剤といえる。ここのところネットウォッチをしていると、やれノマドだ、グローバルだ、経済が破綻する、というような殺伐としたネタだらけで、少々疲れていたこともあって(そんなものばかり読むわたしが悪いのだが)、わたしは本作にいたく感銘を受けた。なぜこんなに感銘を受けたのだろうか。

 

その理由は、おそらく著者が田舎モノであるにもかかわらず(失礼)、成功したイラストレータとして充実した作家人生を送られているからであろう。

 

比べるのも恐縮だが、わたしも著者と同じようにド田舎の産で、かつて、郷里で上京を夢見ていた頃、毎日下手な絵を描いては、漫画家になりたい、いや、上京したら俺は漫画家になろう、とぼんやり考えていた。ま、わたしの場合は、実際の行動が伴っていないただの妄想だったわけだが…。話が逸れたが、わたしは同じ田舎モノとはいえ、著者の家庭環境と大きく異なっていたせいか、プロになるためには上京するしかないと固く信じていた。今考えると何の根拠があるのかわからないが、漫画やイラストを描く人は、とにかく東京の多摩地区(調布や三鷹、武蔵野あたり)に住んで、出版社に持ち込みをしないとだめだと考えていた。

 

わたしの場合、プロになるための具体的な活動を何もしていないので持ち込みもクソもないのだが、とにかく田舎に居てはプロになれないという信仰があったのだ。おそらくこれは多くの田舎モノに共通する心理だろう。高校を卒業したら、大学でデビューだ、というようなストーリである。とはいえ当時としては致し方ない事情もある。大学進学はともかく、少なくともある程度の都市に出ないと画材すら手に入りにくい時代だったのだ。地方に居てはコミケに行くなど夢物語であろう。当時はアマゾンのような便利な仕組みもないし、今ほど萌えとかオタクの市民権もなかったため、Gペンやスクリーントーンを買うにもアニメイトの通販くらいしか手段がなかったと思う。

 

まあわたしのしょうもない述懐はさて措き、とにかく田舎にいてはプロになれないという信仰があったわけである。ところが著者は後々になって結果的に上京するとはいえ、イラストレータとしての基礎は田舎時代に、パソコンとホームページだけでほぼ築き上げているのだ。

 

わたし、この点に強く感銘を受けたのである。

 

作中に説明があるとおり、著者の家庭環境はお世辞にも恵まれているとはいえない。そのせいで、著者はネット弁慶のわたしの目から見るとずいぶんと色んなことに関して世間知らずで、相当の「情弱」に見える。正直申し上げて、読みながらなぜこんなにモノを知らないのだろうかと思ってしまった。もしかしたらこのような情報格差は、都会と地方、あるいは大学に進学したか否か、というところに起因するものなのかもしれない*1

 

誤解をおそれずに言えば、著者はダウンサイドまみれのスタートラインから、結果としてイラストレータとして確固たる地位を確立されているのである。すばらしいことなのだが、わたしのような小賢しい人間は理由を考えずには居られないのである。なぜ、著者は、イラストレータという、非常に門戸の狭い業界において成功できたのであろうか?

 

 

客観的な視点から見ると、著者のこれまでの活動は結果的に優れたマーケティングであったということだろう。前任者の逝去に伴い空白となったポジションにタイミングよく入り込めたのも偶然ではなく、それまでに積み重ねてきた地道な活動による信用があったからに他ならない。仕事をやる上で必要な営業活動、信用を積み重ねること、需要者のニーズに即してタイムリーにアウトプットを出すこと、プロフェッショナルとしては当然のことなのかもしれないが、著者はそれらがすべてできていたということである。著者の度量の広さもあるのだろうが、自分から自分の市場を狭めるというような無益なことはしていないことも伺える。自分のやりたいことやスタイルに固執して営業の幅を狭めてしまうようなことは、『トコノクボ』を読む限り、殆どないように見える。

 

このように、外側をなぞっていくと、「自らのバリューが最適化されるよう、市場に対して適切にアプローチし、競合と差異化していった」というような話にあるわけであるが、驚くべきことに(?)、著者の場合こうした「ビジネスプラン」だとか「キャリアプラン」というようなことは、意識してやられていたわけではないのである。

 

わたしは最近ネットウォッチばかりをしているせいか、(できるできないはさておき)最短ルートはなにか、どういう市場だとどういうニーズがあるか、などといった外側をなぞる癖がついてしまって、やる前から「これは陳腐だ」「これはレッドオーシャンだから無駄だ」「この企業のマーケはへたくそ」というような、小賢しいことを考える知恵がついてしまった。

 

だが、本書を読んで、小賢しいことを考える暇があったら、まず無心に目の前のことに取り組み、いきなりショートカットしようとせずにまずやれることを丁寧に真摯にやらなければ、と改めて感じた次第である。どうにも、こういう青臭いことを考えるのが厭で、斜に構える癖がつきすぎていたように思う。

 

著者はこれまでの半生を振り返って、すべての点はつながっていて、一つの線になって今につながっている、と述懐されている。もちろんネット弁慶のわたしは、こういう話を読むと反射的にスティーブ・ジョブスの有名なスタンフォードのスピーチを思い出す。

 

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. 

 

'You've got to find what you love,' Jobs says

 

ジョブスが言うくらいだから、こういう話にカタルシスを感じるというのは、もしかしたら日本人だけではなく、ユニバーサルな感覚なのかもしれない。

 

まあ、ただの生存バイアスに過ぎないんですけどね。

*1:誤解のないように申し添えておくと、そもそも高等教育が受けられるか否かというのは、本人の能力もさておきながら、家庭環境、もっというと家庭の経済環境に負うところが大きいのではないかと思う。わたし自身、決して裕福ではなく、どちらかというと貧しい家庭に育ったが、著者の家庭のように荒んではいなかった。著者がもし、わたしの家庭に生まれたとしたら、おそらく大阪の美大や工芸大などに進学し、学生生活を通して多くの情報を得ていたであろう。一方、わたしが著者の立場だとして、果たして著者のように真摯な性格に育つかどうか、はなはだ疑問である

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド

ここのところゾンビ映画やTVドラマにはまっていて、話題の『ウォーキング・デッド』はもとより、『ワールド・ウォーZ』の原作者が書いたという『ゾンビサバイバルガイド』や、国際政治学の立場からゾンビをまじめに(?)考えるという触れ込みの『ゾンビ襲来 -国際政治理論で、その日に備える』という本をちんたら読んでいる。

 

 

あまり知らなかったのだが、ここ数年、「ゾンビ」というワードが登場する頻度が増えているようだ。わたしも駆け出しのゾンビフリークとして、自分が好きなジャンルが一般に膾炙していくというのはうれしくもあり、一方でメジャー化してしまうことに一抹の寂しさを感じる次第である。

 

とはいえわたしはリチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』でウィルスパニックものに感化され、一連の『バイオハザード』シリーズと、そしてせいぜい『ウォーキング・デッド』を観るくらいのもので、いわゆる古典というべきものは殆ど観たことがなかった。色々調べてみると、『アイ・アム・レジェンド』でおなじみの『地球最後の男』、そして、有名なジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のふたつが、いわゆる「ゾンビもの」の元祖といわれることが多いらしい。両方とも名作の誉れ高いが、モノクロ時代の映画なので、われわれ世代からするとなかなか観る気がしないというのが正直なところだ。というわけで、これまでずっと敬遠していたのだが、今回意を決して(笑)『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を観てみたところ、意外に良かった。さすがに今観るとありきたりのプロットのように感じてしまうわけだが、これが元祖だと思うと理屈が逆なんだと自分に言い聞かせる。むしろ映像などは、CG全盛の今からすると、よくもまあ特撮もなくここまで撮ったもんだなぁと感心した。下手すると80年代の日本の映画のほうがうそ臭いかもしれない。これが45年前の作品というから驚きである。

 

ということで、ゾンビ・フリークを名乗るにははずせない「古典」をようやく観れたのでご満悦である。今後もめぼしいゾンビものは片っ端から観ていこうと、本当に非生産的な決意をさせてくれた一作であった。

 

継続は力なり

テーマを自由に設定できるようにしてブログの更新頻度を上げようと思っていたのだが、思った以上に怠惰なせいでまったく続かなくなってしまった。ここのところ、軽い本ばかりだがいくつか本は読んでいるので、それをネタに備忘録的にでも書評(という名の要約)を書けばいいのだろうが、それすらおっくうだ。毎日家に帰ってきてから子供と格闘してエネルギィが吸い取られてしまう(ということにして)ので、まったくやる気がおきない。子供が居るのはありがたいが、人生における「時間」というリソースは有限である。子供を持つということは自分で使える時間を子供に振り分けるというポートフォリオでもある。理解していたつもりであるが、負荷は想像以上だった。

 

愚痴はさておき、そういう色々な障壁があるのは大人にとっては前提にちかい。たとえば仕事で「忙しかったからできなかった」とかいうやつは大人とみなされない(残念ながらわたしの周りにはたくさん居るが)。時間や体力気力といった有限のリソースをうまくコントロールしてそつなくアウトプットを出すのが正しい大人である。こういったしょうもないブログでも、やるとなったらきちんとパフォーマンスを出さねば(泡沫といえども)書く意味はないであろう。

 

継続するのは非常に難しいが、逆に言えばこういう小さな積み重ね、自分に課した約束事項をきちんと果たせる人は大成するのではないだろうか。継続は力なり。蓋し至言というべきであろう。

予想通りに不合理

 

結構前に出版されて話題になった「行動経済学」の入門書だが、文庫版(新版?)で見つけたので買って読んでみた。もっと堅い内容だと思っていたのだが、読んでみると大変読みやすい一般向けの本のようである。翻訳が素晴らしいせいもあるだろう。さらさらと読めてストレスなく読み終えることができる。巻末の引用文献を見ると、きちんとしたアカデミックな文脈で理解するのは難しそうだったが、われわれのようにビジネスに援用しようとする不届き者にはちょうどいい内容だろう。

 

これはビジネス書ではないのだろうが、下手なビジネス書より実務に役立つのではなかろうか。マーケティングの実務化には経験的にも学究的にも既知の内容なのかもしれないが、製品のプライシングやプロモーションなどで実務に応用できそうな内容が盛りだくさんで大変ためになった。考えようによっては、これは人間心理のメタな領域に踏み込んだやや危険な書といえるかもしれない。それは、これを読んだ素人がニワカマーケターとなってビジネスで大失敗することも含めて大変危険な本である(笑)。

 

…と、普段ならここで「予想通りに不合理」な事例を本書からいくつか引用してお茶を濁すところだが、今回は少し趣向を変えて、本を読んで思いついたことをふたつほど述べてみたい。

 

ひとつは、本書第9章「扉をあけておく」、すなわち、選択の余地を残しておきたがる性向についての話である。実験の結果によると、選択肢が複数あると、人間はその選択肢を残しておこうとするらしい。しかし、選択の余地を残す、もっと極端に言えば、態度を保留し続けることは、その間に大きな機会損失をしてしまっている可能性もある。だがそれは永遠に知りえないことだ。どちらの選択肢がよかったのかは誰にもわからない。時間は戻せないのだから。

 

極端な例を挙げれば、年頃の女性が「まだ自分の時間を大事にしたいから」と妊娠の機会を保留にしてしまうような態度が相当するだろう。妊娠してしまうと、子育てにリソースを取られてしまい、今の自由な生活を失ってしまう。いずれ妊娠すること自体は可能なわけで、とりあえず現状として「保留」することは、すなわち両方の選択肢を残し続けているということに他ならない。こうして、人はずるずると「扉を開けたまま」にしてしまうのだが、あるとき、一方の扉がいきなり閉じられてしまうことに気付くのだ。一方で、妊娠したことによる未来が、自分にとって望ましくないことだってあるだろう。結局のところ、未来は誰にもわからないのだから、色々予測を立てつつも、最終的にはエイヤで決めてしまうしかないのであろう。

 

わたしは以前にポジションの話を書いたことがあるが、これと同じ仕組みではないだろうか。時間軸が一方にしか進まない以上、現時点ではどういう立場を取ろうと、それは必ず一つのポジションを取っているといえる。言うまでもなく、保留というのもポジションのひとつだ。時間が有限かつ一方通行であることを忘れてしまうと、保留という選択の恐ろしさに気付かなくなってしまう。

 

何故このような話を長々と続けたかというと、個人的な話なのだが、わたしは大学生のときに「可能性の罠」という「真理」に気付いたのだが、このコンセプトが「扉の話」とそっくりだったからである。この造語はもちろんケインズの「流動性の罠」から拝借したものだが、言葉自体はわたしのオリジナル(のつもり)である。若い人に特に顕著な傾向であるが、自分にいくつもの選択肢があると思っていると、そのせいで何か一つを選び、そのほかの選択肢を諦めてしまうことができなくなってしまう、という性向のことを述べたものだ。わたしはこの「可能性の罠」という着想を得たときに、多少大げさにいうと「天啓を受けた」ような気持ちになった。何かが永遠に選択可能であるということはないのだから、主体的に選択行為を行っていこう、という気になったのはこの個人的な体験によるところが大きい。

 

しかし、ちょっと考えればわかることだが、凡庸な大学生が思いつくようなことは、既に偉い人はとっくに考え尽くしているものなのだろう。本書の275ページに書いてある通り、エーリッヒ・フロムが1941年に「近代民主主義において、人々は機会がないことではなく、めまいがするほど機械がありあまっていることに悩まされている」と分析されているようで、わたしにさかのぼること60年である(わたしが「可能性の罠」の着想を得たのは2001年頃)。…ということで壮大な自分語りであったというオチで、ひとつめの話は終わりである。

 

もうひとつは、第2章「需要と供給の誤謬」に書いてある価格のアンカリングについてである。これは簡単に言うとあるプライシングが基準になって、似たようなものの「値ごろ感」が人々に共有されると言うものである。スターバックスのコーヒーはドトールやベローチェの感覚からするとお高いものだが、似たようなつくり(シアトル風というのか?)のタリーズのコーヒーもまあ同じくらいの価格で受け入れられている。こういうのが所謂価格のアンカリングというやつである。

 

ここでわたしは素人考えをするのだが、たとえばクルマのように比較的ハードウェアがベースになっている消費財は、固定費が原価として「想像しやすい」ため、かかった原価にマージンを乗っけて出てきた価格に納得できる傾向にあると思う。勿論高級車になればなるほど利鞘すなわち粗利が大きくなるのであろうが、大衆車であってもだいたい150万とか200万くらいはかかるというのは何となく納得できるものである。(とはいえ、家電やデジカメのように、コモディティの波に飲まれているものは既にそうなっていないが…)

 

しかし、一方で外食のように明らかに原価が低い商材や、ソフトウェアのように原価が見えにくいものには、価格の納得性というのがいまひとつわかりにくいように思う。そのため、こういう業界は価格というのが一つのアンカーに必要以上に引きずられてしまうように思う。わかり易い例が牛丼であろう。色々値下げ合戦しているうちに、ほぼ280円という価格が業界標準のアンカーになってしまい、チキンレースをしているうちに価格が変えられなくなってしまった。デフレの象徴のようなものであろう。勿論、スターバックスのように「500円くらいの価格をアンカーにするちょっと高級な牛丼屋」というイノベーションがあるのかもしれないが…。

 

また、わたしが末席を汚す受託業界も、悪名高き「人月単価」という名で価格がアンカリングされており、詳細は言えないが「PG1人月○万円、SE1人月○万円、コンサル1人月○万円」という相場は確実に存在する。今はこれが下落傾向にありコンサル会社やSIerが皆苦しんでいるわけだ。

 

この流れはパッケージソフトウェア系も同様で、エンプラ系の場合、サーバライセンス○○円ユーザライセンス○○円とやっていた商売が、所謂「クラウドコンピューティング」によってアンカーをドンドン下げられてしまっているわけである。売る側の立場からすれば、ソフトウェアもクルマなどと同じで原価というのがあるから当然価格に転嫁しないとやっていけないわけだが(そして、それは必ずしもボッタクリというわけではなく、高度なプロダクト管理ができている製品にはエンタープライズ用途に耐えるだけの意味がそれなりにあるのだが)、ユーザは細かいインテグレーションの差異まで見ない(見えない)ので、機能だけで見ると価格のアンカリングが下方修正されているわけである。こうして、業界全体でデフレの傾向が強まり、市場全体としてみればシュリンクしていっているように思える。

 

ということで、ある種の「カルテル」なのだが、業界の慣行を価格で破壊するというのは、巡り巡って自分の首を絞めるだけだからやめようぜ、という話である。これは別に自分の業界だからそういっているわけではなく、象徴的に言えば「牛丼280円とか誰も幸せにせんだろ」ということが言いたいわけだ。何の話だっけ…。ああそうだ、『予想通りに不合理』の話だったのに、いつの間に自分語りになってしまったんだろうw